らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
1001
滝山城 (東京都八王子市丹木町) 
◆甲斐の武田に備え、そしてその武田を退けた関東屈指の名城◆
9月10日(日)に「しろうたカフェ」様で開催された約2時間のトークイベントは、坂東武者(?)を中心とした皆様のご参加を賜りアットホームな雰囲気の中で無事に終了しました。信濃の山城の魅力について充分に語り尽くせなかったのですが、また第二弾も継続させていただけるようなので、次回に向けて精進あるのみですね・・・(^-^)
今回見学感想文をお披露目させていただくのは、トークイベント前にチラリと立ち寄った「続日本100名城」の滝山城でございます。
あまりに有名すぎる関東屈指の名城を、信濃の田舎者が見るとどうなるのか、乞うご期待って感じですね・・・(笑)

登り口の滝山観光駐車場にもそのやる気を感じる横断幕がありました。

滝山城の城址碑。城友の久太郎さんはきっと寝そべって撮影するんだろうなあー。あたしゃ「恥っずー」なんでムリムリっつーの!(笑)
日本100名城とか、その後の「続・日本100名城」って、結構巡っている方が多いのには驚きます。
ん-ん、スタンプラリー的な部分から入るきっかけづくりなんでしょうかねえ。
そういえば最近は下火になってしまった(?)感のぬぐえない「ダムカード」や「マンホールカード」なんかも入門編としての功績は素晴らしいと思うのですが、いかんせんいか如何に持続・継続していくかはお役所の官僚思考を改めないと無理だと個人的には思ってます、ハイ・・・(笑)

滝山城鳥観図(中田正光氏作図 特定非営利法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会のパンフレットより引用転載)
北条氏照が心血注いで築城した滝山城は武田信玄の猛攻を退け、日本100名城で同じく氏照がその後築城した八王子城と並び、後北条氏の築城技術の傑作と言われている。
北条さんちの城マニアを敵に回さないような言い回しをしないと、今回の記事は炎上しそうな予感しかない・・・・(汗)

大手道を登ると天野坂に郭があり、とりあえず神社に通行許可を得る。これは霊除けの基本ですね(笑)

小宮曲輪南側(大手道側)の箱堀。嬉し過ぎてそのまま堀を北上しかけたのだが、時間の制限を想い出して大手道に戻った。

天野坂の堀底道は西の三の丸との間で桝形になり敵の侵入に備えている。
【立地】
滝山城が築かれた加住丘陵は東西に長く、北側は多摩川に浸食され急峻な断崖、南は谷地川に挟まれた入り組んだ複雑な地形でで東西約900mほどあり、東日本の平山城としては最大級の広さを誇る。丘陵の中央付近には弁天池があり(現在は水が無い)、城の水の手として豊富な水量を湛えたという。
元々の築城コンセプトは多摩川を挟んだ北の対岸に備えた城であり、沿岸沿いにあった高月城、根小屋城の中心的な城としての役割が伺える。

災害や枯れによる倒木が酷く三の丸を始めとして立ち入りや見学が出来ない郭が増えている。(写真は三の丸)

二の丸手前の千畳敷。北側に広大な弁天池が置かれたのは、水堀の役割も兼ねて中枢部を防御したものと考えられる。
【角馬出】
恥ずかしながら、北条流の築城技術とされる「角馬出」なるものを初めて見させてもらった。千畳敷から二の丸への出入り口に設置されたもので、滝山城の防御の中心を担う二の丸には馬出が三か所あるという。
残念ながら時間の制約により大馬出は見られなかったが、次回は是非隅々まで見たいものである。

ホントにマジで方形の馬出があるんだ・・・考えたヤツ優勝でしょ!(笑)
【城主・城歴】 (滝山城城攻めマップより引用転載、中段文章省略)
滝山城は大永元年(1521年)に武蔵守護代の大石定重が築城し。のちに大石氏の養子になった北条氏照(小田原北条氏四代氏政の弟)が拡張、改修したとされてきました。しかし、近年の研究により、北条氏照は油井領を支配していた大石綱周の養子になり、「浄福寺城(油井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後永禄十年(1567年)までに滝山城を築城して移転したと考えられてきています。
永禄十二年(1569年)10月2日に、甲斐の武田信玄が上野から武蔵に侵入して滝山城を攻撃した際に、城下に火をつけて「二の丸」まで攻め込んだと伝えられています。しかし氏照が当時同盟関係であった上杉謙信の重臣に出した手紙によると、城下に兵を出して戦ったとあります。
その後、氏照は甲斐を重視して八王子城の築城に取り掛かり、天正十五年(1587年)ころまでに移って行ったと考えられています。

角馬出から見た二の丸の南側切岸と深い空堀。

東馬出付近。城域が広すぎて何処にいるのかすらおぼつきません・・・(汗)

東端の広大な家臣屋敷跡(信濃屋敷・刑部屋敷・カゾノ屋敷と続く)。信濃守を名乗った家臣の屋敷から郭の名が付けられたという。

城域東端の深い空堀。ここは木製の引き橋が架かり、南の窪地は広大な池の跡で、ここも水堀として防御機能していたようである。
【中の丸】
守備の中枢は「二の丸」という考えは最もだが、中の丸は多摩川側の段丘に面しており、河越街道からの敵の迎撃そして二の丸を突破した敵を集中的に防ぐ要所にありかなり重要視された郭であろう。
本丸との連結は木橋のみであり、往時は敵の襲来に備え幅はもっと狭かったであろうことが容易に想像出来る。

現在の中の丸の様子。右下は多摩川方面。段丘には防御のための段郭を何段か備えている。

本丸側よりみた中の丸に架かる木橋。往時はもう少し下の位置に架かっていたらしい。

発掘調査によれば、この木橋の架かる大堀切はもっと深かったという。
【本丸東桝形虎口】
中の丸の木橋を渡る攻城兵は、本丸東の桝形虎口で殲滅させられる仕組みである。本郭の入口は合計三か所で、それぞれ桝形虎口で敵の侵入を阻止している。

本丸東側桝形虎口。

本丸南側桝形虎口。
【城跡】
北を多摩川、南を谷地川に挟まれるように東西およそ約900mに及ぶその広さは、平山城としては東日本最大級の広さを持つと言われる。城の最高地点は本丸の川を挟んだ西尾根にある「山の神曲輪」の172mだが、縄張の中心は「本丸」(169m)の東尾根続きの中の丸・二の丸」(165m)付近である。この場所は深い谷地を伴う複雑な尾根の地形の中心であり、縄張はここを基本に拡張していったと推定される。
大手の南側は丘陵の傾斜が緩いので郭を何段も重ねてと切岸と深い箱堀を回らせているが、拡張し過ぎた広すぎる城域の防衛はいかに優れた築城技術力を持つ北条氏の卓越した縄張だけではカバー出来なかったと推定される。

本丸(下段南側)

城址碑と堀貫井戸。

本丸上段北側の霞神社への階段(左上)、本丸上段の削平地(右上)、本丸から多摩川方面(左下)、本丸下の段郭(右下)
城郭探訪を趣味として始めたころに、碓氷峠を越えて群馬県に入ると、どういう訳か城の規模が巨大になる事に違和感を覚えた。(全てがそうとは限らないのだが・・・) そして関東平野の山脈の無さに愕然とした(というか、山がはるか遠くにしか見えないのは何故という素朴な疑問)
東京都にこんなでっかい山城があるのも見ると聞くとは大違い。その翌日に八王子城を訪問して比高差200m以上の山城に更にビックリ、もうすでに優勝じゃん!!(笑)
滝山城、良きお城です。小生が地元民だったら、毎週通い詰めて徹底的に籠城してますね・・・(爆笑)
≪滝山城≫ (たきやまじょう)
築城年代:永禄年間
築城者・居住者:北条氏照
場所:東京都八王子市丹木町
探訪日:2023年9月10日
お勧め度:★★★★★ (満点) 難易度:C (SS・S・A・B・C・D)
標高:169m 比高:40m (滝山駐車場より) ※多摩川からの比高は98m
城跡までの所要時間:10分 駐車場:滝山観光駐車場
見どころ:堀切、竪堀、切岸、郭、土塁、池跡、井戸跡など
注意事項:倒木による立ち入り禁止区域があるのでルールは守りましょう
参考資料:「滝山城城攻めマップ」(滝山城 自然と歴史を守る会)「滝山三城」(八王子市産業振興部観光課)
付近の城址:八王子城、根小屋城、高月城など

どんなに技巧的で優れた城だとしても、広すぎて守れない城ってのも問題ありですね・・・(信濃の弱小豪族貧民談・・・笑)
9月10日(日)に「しろうたカフェ」様で開催された約2時間のトークイベントは、坂東武者(?)を中心とした皆様のご参加を賜りアットホームな雰囲気の中で無事に終了しました。信濃の山城の魅力について充分に語り尽くせなかったのですが、また第二弾も継続させていただけるようなので、次回に向けて精進あるのみですね・・・(^-^)
今回見学感想文をお披露目させていただくのは、トークイベント前にチラリと立ち寄った「続日本100名城」の滝山城でございます。
あまりに有名すぎる関東屈指の名城を、信濃の田舎者が見るとどうなるのか、乞うご期待って感じですね・・・(笑)

登り口の滝山観光駐車場にもそのやる気を感じる横断幕がありました。

滝山城の城址碑。城友の久太郎さんはきっと寝そべって撮影するんだろうなあー。あたしゃ「恥っずー」なんでムリムリっつーの!(笑)
日本100名城とか、その後の「続・日本100名城」って、結構巡っている方が多いのには驚きます。
ん-ん、スタンプラリー的な部分から入るきっかけづくりなんでしょうかねえ。
そういえば最近は下火になってしまった(?)感のぬぐえない「ダムカード」や「マンホールカード」なんかも入門編としての功績は素晴らしいと思うのですが、いかんせんいか如何に持続・継続していくかはお役所の官僚思考を改めないと無理だと個人的には思ってます、ハイ・・・(笑)

滝山城鳥観図(中田正光氏作図 特定非営利法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会のパンフレットより引用転載)
北条氏照が心血注いで築城した滝山城は武田信玄の猛攻を退け、日本100名城で同じく氏照がその後築城した八王子城と並び、後北条氏の築城技術の傑作と言われている。
北条さんちの城マニアを敵に回さないような言い回しをしないと、今回の記事は炎上しそうな予感しかない・・・・(汗)


大手道を登ると天野坂に郭があり、とりあえず神社に通行許可を得る。これは霊除けの基本ですね(笑)




小宮曲輪南側(大手道側)の箱堀。嬉し過ぎてそのまま堀を北上しかけたのだが、時間の制限を想い出して大手道に戻った。

天野坂の堀底道は西の三の丸との間で桝形になり敵の侵入に備えている。
【立地】
滝山城が築かれた加住丘陵は東西に長く、北側は多摩川に浸食され急峻な断崖、南は谷地川に挟まれた入り組んだ複雑な地形でで東西約900mほどあり、東日本の平山城としては最大級の広さを誇る。丘陵の中央付近には弁天池があり(現在は水が無い)、城の水の手として豊富な水量を湛えたという。
元々の築城コンセプトは多摩川を挟んだ北の対岸に備えた城であり、沿岸沿いにあった高月城、根小屋城の中心的な城としての役割が伺える。

災害や枯れによる倒木が酷く三の丸を始めとして立ち入りや見学が出来ない郭が増えている。(写真は三の丸)

二の丸手前の千畳敷。北側に広大な弁天池が置かれたのは、水堀の役割も兼ねて中枢部を防御したものと考えられる。
【角馬出】
恥ずかしながら、北条流の築城技術とされる「角馬出」なるものを初めて見させてもらった。千畳敷から二の丸への出入り口に設置されたもので、滝山城の防御の中心を担う二の丸には馬出が三か所あるという。
残念ながら時間の制約により大馬出は見られなかったが、次回は是非隅々まで見たいものである。




ホントにマジで方形の馬出があるんだ・・・考えたヤツ優勝でしょ!(笑)
【城主・城歴】 (滝山城城攻めマップより引用転載、中段文章省略)
滝山城は大永元年(1521年)に武蔵守護代の大石定重が築城し。のちに大石氏の養子になった北条氏照(小田原北条氏四代氏政の弟)が拡張、改修したとされてきました。しかし、近年の研究により、北条氏照は油井領を支配していた大石綱周の養子になり、「浄福寺城(油井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後永禄十年(1567年)までに滝山城を築城して移転したと考えられてきています。
永禄十二年(1569年)10月2日に、甲斐の武田信玄が上野から武蔵に侵入して滝山城を攻撃した際に、城下に火をつけて「二の丸」まで攻め込んだと伝えられています。しかし氏照が当時同盟関係であった上杉謙信の重臣に出した手紙によると、城下に兵を出して戦ったとあります。
その後、氏照は甲斐を重視して八王子城の築城に取り掛かり、天正十五年(1587年)ころまでに移って行ったと考えられています。

角馬出から見た二の丸の南側切岸と深い空堀。

東馬出付近。城域が広すぎて何処にいるのかすらおぼつきません・・・(汗)

東端の広大な家臣屋敷跡(信濃屋敷・刑部屋敷・カゾノ屋敷と続く)。信濃守を名乗った家臣の屋敷から郭の名が付けられたという。


城域東端の深い空堀。ここは木製の引き橋が架かり、南の窪地は広大な池の跡で、ここも水堀として防御機能していたようである。
【中の丸】
守備の中枢は「二の丸」という考えは最もだが、中の丸は多摩川側の段丘に面しており、河越街道からの敵の迎撃そして二の丸を突破した敵を集中的に防ぐ要所にありかなり重要視された郭であろう。
本丸との連結は木橋のみであり、往時は敵の襲来に備え幅はもっと狭かったであろうことが容易に想像出来る。



現在の中の丸の様子。右下は多摩川方面。段丘には防御のための段郭を何段か備えている。

本丸側よりみた中の丸に架かる木橋。往時はもう少し下の位置に架かっていたらしい。

発掘調査によれば、この木橋の架かる大堀切はもっと深かったという。
【本丸東桝形虎口】
中の丸の木橋を渡る攻城兵は、本丸東の桝形虎口で殲滅させられる仕組みである。本郭の入口は合計三か所で、それぞれ桝形虎口で敵の侵入を阻止している。

本丸東側桝形虎口。

本丸南側桝形虎口。
【城跡】
北を多摩川、南を谷地川に挟まれるように東西およそ約900mに及ぶその広さは、平山城としては東日本最大級の広さを持つと言われる。城の最高地点は本丸の川を挟んだ西尾根にある「山の神曲輪」の172mだが、縄張の中心は「本丸」(169m)の東尾根続きの中の丸・二の丸」(165m)付近である。この場所は深い谷地を伴う複雑な尾根の地形の中心であり、縄張はここを基本に拡張していったと推定される。
大手の南側は丘陵の傾斜が緩いので郭を何段も重ねてと切岸と深い箱堀を回らせているが、拡張し過ぎた広すぎる城域の防衛はいかに優れた築城技術力を持つ北条氏の卓越した縄張だけではカバー出来なかったと推定される。

本丸(下段南側)


城址碑と堀貫井戸。




本丸上段北側の霞神社への階段(左上)、本丸上段の削平地(右上)、本丸から多摩川方面(左下)、本丸下の段郭(右下)
城郭探訪を趣味として始めたころに、碓氷峠を越えて群馬県に入ると、どういう訳か城の規模が巨大になる事に違和感を覚えた。(全てがそうとは限らないのだが・・・) そして関東平野の山脈の無さに愕然とした(というか、山がはるか遠くにしか見えないのは何故という素朴な疑問)
東京都にこんなでっかい山城があるのも見ると聞くとは大違い。その翌日に八王子城を訪問して比高差200m以上の山城に更にビックリ、もうすでに優勝じゃん!!(笑)
滝山城、良きお城です。小生が地元民だったら、毎週通い詰めて徹底的に籠城してますね・・・(爆笑)
≪滝山城≫ (たきやまじょう)
築城年代:永禄年間
築城者・居住者:北条氏照
場所:東京都八王子市丹木町
探訪日:2023年9月10日
お勧め度:★★★★★ (満点) 難易度:C (SS・S・A・B・C・D)
標高:169m 比高:40m (滝山駐車場より) ※多摩川からの比高は98m
城跡までの所要時間:10分 駐車場:滝山観光駐車場
見どころ:堀切、竪堀、切岸、郭、土塁、池跡、井戸跡など
注意事項:倒木による立ち入り禁止区域があるのでルールは守りましょう
参考資料:「滝山城城攻めマップ」(滝山城 自然と歴史を守る会)「滝山三城」(八王子市産業振興部観光課)
付近の城址:八王子城、根小屋城、高月城など

どんなに技巧的で優れた城だとしても、広すぎて守れない城ってのも問題ありですね・・・(信濃の弱小豪族貧民談・・・笑)
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Posted on 2023/10/01 Sun. 20:20 [edit]
0819
トークイベントのご案内 
◆長野県の山城の魅力について語り合いましょう◆
このところドタバタしており、全くブログが更新出来ない・・・1日24時間は誰も公平な持ち分なので、言い訳にしか聞こえない(笑)
2009年に始めたブログも14年目に突入したが、「母さん、あの頃のがむしゃらな情熱はどこにいったんでしょうか・・・」自問自答の日々。
ひょんな事から、お城好きのカフェオーナーから「お城好き」の皆さんの為に東京都福生市にオープンした「しろうたカフェ」でトークイベントやりませんか?とお誘いを受けた。
全国区の余湖さんやウモさん夫妻もイベント出演し講演したらしいが、果たして地域密着型というか長野県の山城に特化した無名に近い小生がお客さんを呼べるのか甚だ疑問ではあったが、長野県の山城の魅力をお伝えできるのであればとお引受けさせていただいた。
当日は一方通行のトークイベントではなく、ご来場いただいた皆さんにも参加いただければと思ってます。

当日の内容としては、
①標高(比高)から考察する長野県の山城の特異性
②独自に進化を遂げた石積み技術
③藪の少ない良好な埋蔵文化財が何故多いのか
④甲越紛争、天正壬午の乱など実戦に使用された改修され続けた山城の紹介
などをお話し出来ればといいかなーなんて思っておりますw
トークイベントまで1ヶ月を切ってしまい、必死で資料を作成していますが、間に合うかなー・・・(汗)←いや、やるしかないし・・(笑)
以下、当日使う写真を2枚ほどご紹介しておきますね。
なかなか「花の都東京」で講演する機会などこの先も皆無かと思いますので、ご都合が合う皆様のご来場をお待ちしております!(会費負けしない内容にしたいので頑張ります・・笑)

村上連珠砦の最高峰に位置する虚空蔵山城(上田市上塩尻 1,077m)

上田市真田町にある松尾古城(1,033m)、遠見番所(1,365m)
このところドタバタしており、全くブログが更新出来ない・・・1日24時間は誰も公平な持ち分なので、言い訳にしか聞こえない(笑)
2009年に始めたブログも14年目に突入したが、「母さん、あの頃のがむしゃらな情熱はどこにいったんでしょうか・・・」自問自答の日々。
ひょんな事から、お城好きのカフェオーナーから「お城好き」の皆さんの為に東京都福生市にオープンした「しろうたカフェ」でトークイベントやりませんか?とお誘いを受けた。
全国区の余湖さんやウモさん夫妻もイベント出演し講演したらしいが、果たして地域密着型というか長野県の山城に特化した無名に近い小生がお客さんを呼べるのか甚だ疑問ではあったが、長野県の山城の魅力をお伝えできるのであればとお引受けさせていただいた。
当日は一方通行のトークイベントではなく、ご来場いただいた皆さんにも参加いただければと思ってます。

当日の内容としては、
①標高(比高)から考察する長野県の山城の特異性
②独自に進化を遂げた石積み技術
③藪の少ない良好な埋蔵文化財が何故多いのか
④甲越紛争、天正壬午の乱など実戦に使用された改修され続けた山城の紹介
などをお話し出来ればといいかなーなんて思っておりますw
トークイベントまで1ヶ月を切ってしまい、必死で資料を作成していますが、間に合うかなー・・・(汗)←いや、やるしかないし・・(笑)
以下、当日使う写真を2枚ほどご紹介しておきますね。
なかなか「花の都東京」で講演する機会などこの先も皆無かと思いますので、ご都合が合う皆様のご来場をお待ちしております!(会費負けしない内容にしたいので頑張ります・・笑)

村上連珠砦の最高峰に位置する虚空蔵山城(上田市上塩尻 1,077m)

上田市真田町にある松尾古城(1,033m)、遠見番所(1,365m)
Posted on 2023/08/19 Sat. 10:41 [edit]
0628
入山城2 (リテイク 千曲市新山 千曲市指定史跡) 
◆地元の整備保存会の努力により魅力を取り戻した中世の山城◆
先日、2年前に設立された「上田広域山城連絡協議会」の総会が開催された。
小生は会のオブザーバーという立場ながら、三役より講演の依頼があり、会員の皆様に僭越ながら「中世の城巡りの趣味の定着化と地域おこしへの活用」と題してスライドを交えながら、約40分ほどお話をさせていただきました。
講演後、会員の皆様からは「長野県の山城が全国区人気だとは知らなかった」とか、「標高1,000m以上の場所にある山城の数は全国一とは初めて聞いた」であるとか、「長野の山城は独自の石積み技法で築かれたものも多く、全国的にも珍しいんですね」といった嬉しいお言葉を頂戴しました(^.^)
今回の総会には、千曲市の三つのうちの一つの山城整備保存会の方がゲストとして出席されておりましたので、敬意を表して「入山城」(いりやまじょう)の現在の整備状況を皆様にご案内するべくリテイク記事にしてみました。
※初回記事(2012年6月)はこちら⇒入山城

登り口の配水池脇に新しく駐車場が整備され取付道路も舗装されました。ここの新しい看板が目印。(奥の尾根のピークが城跡)

普通車なら5台ほど駐車できる配水池脇の駐車場。途中の取付道路はすれ違い困難なので注意が必要。

矢印看板があるので、ここから整備された遊歩道を西に歩いていきます。このあたりも往時は郭が置かれていた可能性がある。
【立地】
上田市と筑北村の境にある大林山(1,333m)から北東に派生した尾根で、新山地区と漆原地区の間にある越戸山の尾根の先端標高510mに位置する。南対岸の尾根には出浦城のある岩井堂山(793.1m)、1.4km北には荒砥城(590m)が指呼の間にある。また千曲川を挟んだ正面の東対岸には葛尾城(805m)が見え、この場所がいかに要衝の地であったかが伺える。

駐車場から城跡までの比高差は約60mだが、この階段を造成する作業はかなり大変だったと思われます。有難い事です。
【城主・城歴】
入山城は、寄合氏、村上氏の被官である入山氏、横山氏、安藤氏と代々受け継がれたと伝わるが、詳細は不明だという。北東の麓には「御屋敷」という地名があるので豪族の居館があり城下町が形成されていたと思われる。
村上氏が武田に追われた後、荒砥城には屋代氏が入り、天正壬午の乱以降は上杉景勝の管轄下に置かれたこの地域で入山城がどのような役割を果たしたのかはわかっていない。

縄張りは単純な連郭式だが、堀切㋐が郭4とその腰郭をカバーするために変則的なL字堀切にしているのが特徴的である。
10年前の見取図はあまりに適当すぎたので今回ざっくり書き直しました・・・(汗)

郭4手前のL字型段郭。ベンチと登山者名簿が置かれている。ここで一息入れましょう!

大手曲輪と称される郭4。石祠が勧進されている。

主郭との間の堀切㋐。(上巾10m)

主郭から見下ろした堀切㋐と郭4。郭4の北側の縁にL字で折れる事により郭4の下の腰郭も防御する構造になっている。
【城跡】
単純な連郭式に見えるが、各郭の独立性を保持するために堀切を入れている。主郭と大手郭(郭4)の堀切は、折れを伴うもので腰郭までの防御を考慮した優れものである。
主郭の北側には土塁跡が確認出来るが、全周はしていない。また、全ての堀切は北側の斜面に対して長大な長さを持つ竪堀となり、特に㋒と㋓は麓まで100m近く伸ばしている。防御の意図すれば、筑北村を越えてくる四十八曲峠に対してのものだろうか。
また、郭3の堀切を隔てた奥の平場には「堰路」(せきろ)と呼ばれる水路跡がある。これが城跡の遺構なのかははっきりしないが、水の手として山の中腹に水源を求めていたとしたら面白い構造物である。
●主郭とその周辺

主郭と郭4は高低差を伴う。

主郭の北側のみに土塁が残る。

南側から見た主郭(20×12)

主郭から見下ろした堀切㋑(上巾11m)。伐木により薬研堀の規模と形がしっかり見学できますネ。

堀切㋑その2。とても500年以上前の遺構とは思えないほど現役バリバリを伝えている。

堀切㋑その3。北側の斜面にしっかり切り込んでいる。
●郭2・郭3とその周辺

郭2(9×11)。堡塁的な小さな郭で背後に土塁。もう少し削り込むと㋑と㋒は二重堀切になるのでその効果も狙ったものか?

郭2から見下ろした堀切㋒(上巾7m)。

堀切㋒は恐ろしく長い竪堀として北斜面を下がっていく。

城内で最大の広さを持つ郭3(36×13)。

郭3から見た堀切㋓方面。

かなり埋まってしまっている堀切㋓(上巾5m)

堀切㋓も堀切㋒と同様に北斜面に対して長大な竪掘となり麓に向けて約100m落ちていく。南斜面に対しては短い。
●堰路(水路跡)
今から150年前の明治に出版された「長野県町村誌」の新山村(現在の千曲市新山)の項に入山城については以下の記載が見える。
【古城址】
本村申の方にあり。日影山の嶺上。一平地をなし、東西六十間許、南北八間、中に堀切四ヶ所あり。西の方西山に接し三方険峻なり、高六十間許。
往古堤山より、該所へ用水を通ぜし堰路あり、諸氏の城壚なるか不詳。
※堰路(せきろ)とは水路の事
この場所及び堰路の遺構を城のものと判断するのは非常に難しい。ただ、明治の初期に地元に遺構の事が伝わっているとすれば、城に関係した構築物としてみるのもあながち間違いではないような気がする。
山の城で「水の手」を考える事は外せないので、入山城の水の手として構築されたのもとすれば、極めて貴重なものであろう。

境界線や猪除けとしての土塁は時々見かけるが、この土塁(長さ34m)の上を竹筒のようなものを通したのであろうか。

堀切㋓の手前でL字に折れて排水路のような溝が南斜面に落ちているのが確認出来る。堀切にしては細すぎると感じた次第。
さて、如何でしたでしょうか、入山城のリテイク記事。
地元の新山地区の歴史と自然保存を主旨とした整備保存会の皆さんが令和2年から黙々と作業を続けてこられ、整備事業が完了したそうです。地元の住民の皆さんを対象とした現地見学説明会も行われたようです。
「まずは地元の歴史や文化財に興味を持ち学ぶ」
とても大切な事だと思います。おかげで中世の城巡りの趣味をもつ我らも快適に見学が出来ます。感謝感謝ですね。

今回は夏場なので、景色も限られてしまったが、晩秋~春先にかけてのロケーションは素晴らしいと思われる。
≪入山城≫ (いりやまじょう 新山城)
築城年代:不明
築城者・居住者:不明
場所:千曲市新山
探訪日:2023年6月25日
お勧め度:★★★★☆ 難易度:C (SS・S・A・B・C・D)
標高:510m 比高:80m (配水池駐車場より)
城跡までの所要時間:15分 駐車場:配水池脇に乗用車5台分
見どころ:堀切、竪堀、切岸、郭、土塁、水路跡
注意事項:特にありません
参考資料:「信濃の山城と館3⃣ 長野・更埴編」(宮坂武男著)、長野県町村誌
付近の城址:荒砥城、出浦城、葛尾城など

入山城遠景。
先日、2年前に設立された「上田広域山城連絡協議会」の総会が開催された。
小生は会のオブザーバーという立場ながら、三役より講演の依頼があり、会員の皆様に僭越ながら「中世の城巡りの趣味の定着化と地域おこしへの活用」と題してスライドを交えながら、約40分ほどお話をさせていただきました。
講演後、会員の皆様からは「長野県の山城が全国区人気だとは知らなかった」とか、「標高1,000m以上の場所にある山城の数は全国一とは初めて聞いた」であるとか、「長野の山城は独自の石積み技法で築かれたものも多く、全国的にも珍しいんですね」といった嬉しいお言葉を頂戴しました(^.^)
今回の総会には、千曲市の三つのうちの一つの山城整備保存会の方がゲストとして出席されておりましたので、敬意を表して「入山城」(いりやまじょう)の現在の整備状況を皆様にご案内するべくリテイク記事にしてみました。
※初回記事(2012年6月)はこちら⇒入山城

登り口の配水池脇に新しく駐車場が整備され取付道路も舗装されました。ここの新しい看板が目印。(奥の尾根のピークが城跡)

普通車なら5台ほど駐車できる配水池脇の駐車場。途中の取付道路はすれ違い困難なので注意が必要。


矢印看板があるので、ここから整備された遊歩道を西に歩いていきます。このあたりも往時は郭が置かれていた可能性がある。
【立地】
上田市と筑北村の境にある大林山(1,333m)から北東に派生した尾根で、新山地区と漆原地区の間にある越戸山の尾根の先端標高510mに位置する。南対岸の尾根には出浦城のある岩井堂山(793.1m)、1.4km北には荒砥城(590m)が指呼の間にある。また千曲川を挟んだ正面の東対岸には葛尾城(805m)が見え、この場所がいかに要衝の地であったかが伺える。




駐車場から城跡までの比高差は約60mだが、この階段を造成する作業はかなり大変だったと思われます。有難い事です。
【城主・城歴】
入山城は、寄合氏、村上氏の被官である入山氏、横山氏、安藤氏と代々受け継がれたと伝わるが、詳細は不明だという。北東の麓には「御屋敷」という地名があるので豪族の居館があり城下町が形成されていたと思われる。
村上氏が武田に追われた後、荒砥城には屋代氏が入り、天正壬午の乱以降は上杉景勝の管轄下に置かれたこの地域で入山城がどのような役割を果たしたのかはわかっていない。

縄張りは単純な連郭式だが、堀切㋐が郭4とその腰郭をカバーするために変則的なL字堀切にしているのが特徴的である。
10年前の見取図はあまりに適当すぎたので今回ざっくり書き直しました・・・(汗)


郭4手前のL字型段郭。ベンチと登山者名簿が置かれている。ここで一息入れましょう!

大手曲輪と称される郭4。石祠が勧進されている。

主郭との間の堀切㋐。(上巾10m)

主郭から見下ろした堀切㋐と郭4。郭4の北側の縁にL字で折れる事により郭4の下の腰郭も防御する構造になっている。
【城跡】
単純な連郭式に見えるが、各郭の独立性を保持するために堀切を入れている。主郭と大手郭(郭4)の堀切は、折れを伴うもので腰郭までの防御を考慮した優れものである。
主郭の北側には土塁跡が確認出来るが、全周はしていない。また、全ての堀切は北側の斜面に対して長大な長さを持つ竪堀となり、特に㋒と㋓は麓まで100m近く伸ばしている。防御の意図すれば、筑北村を越えてくる四十八曲峠に対してのものだろうか。
また、郭3の堀切を隔てた奥の平場には「堰路」(せきろ)と呼ばれる水路跡がある。これが城跡の遺構なのかははっきりしないが、水の手として山の中腹に水源を求めていたとしたら面白い構造物である。
●主郭とその周辺

主郭と郭4は高低差を伴う。

主郭の北側のみに土塁が残る。

南側から見た主郭(20×12)

主郭から見下ろした堀切㋑(上巾11m)。伐木により薬研堀の規模と形がしっかり見学できますネ。

堀切㋑その2。とても500年以上前の遺構とは思えないほど現役バリバリを伝えている。

堀切㋑その3。北側の斜面にしっかり切り込んでいる。
●郭2・郭3とその周辺

郭2(9×11)。堡塁的な小さな郭で背後に土塁。もう少し削り込むと㋑と㋒は二重堀切になるのでその効果も狙ったものか?

郭2から見下ろした堀切㋒(上巾7m)。

堀切㋒は恐ろしく長い竪堀として北斜面を下がっていく。

城内で最大の広さを持つ郭3(36×13)。

郭3から見た堀切㋓方面。

かなり埋まってしまっている堀切㋓(上巾5m)


堀切㋓も堀切㋒と同様に北斜面に対して長大な竪掘となり麓に向けて約100m落ちていく。南斜面に対しては短い。
●堰路(水路跡)
今から150年前の明治に出版された「長野県町村誌」の新山村(現在の千曲市新山)の項に入山城については以下の記載が見える。
【古城址】
本村申の方にあり。日影山の嶺上。一平地をなし、東西六十間許、南北八間、中に堀切四ヶ所あり。西の方西山に接し三方険峻なり、高六十間許。
往古堤山より、該所へ用水を通ぜし堰路あり、諸氏の城壚なるか不詳。
※堰路(せきろ)とは水路の事
この場所及び堰路の遺構を城のものと判断するのは非常に難しい。ただ、明治の初期に地元に遺構の事が伝わっているとすれば、城に関係した構築物としてみるのもあながち間違いではないような気がする。
山の城で「水の手」を考える事は外せないので、入山城の水の手として構築されたのもとすれば、極めて貴重なものであろう。




境界線や猪除けとしての土塁は時々見かけるが、この土塁(長さ34m)の上を竹筒のようなものを通したのであろうか。

堀切㋓の手前でL字に折れて排水路のような溝が南斜面に落ちているのが確認出来る。堀切にしては細すぎると感じた次第。
さて、如何でしたでしょうか、入山城のリテイク記事。
地元の新山地区の歴史と自然保存を主旨とした整備保存会の皆さんが令和2年から黙々と作業を続けてこられ、整備事業が完了したそうです。地元の住民の皆さんを対象とした現地見学説明会も行われたようです。
「まずは地元の歴史や文化財に興味を持ち学ぶ」
とても大切な事だと思います。おかげで中世の城巡りの趣味をもつ我らも快適に見学が出来ます。感謝感謝ですね。




今回は夏場なので、景色も限られてしまったが、晩秋~春先にかけてのロケーションは素晴らしいと思われる。
≪入山城≫ (いりやまじょう 新山城)
築城年代:不明
築城者・居住者:不明
場所:千曲市新山
探訪日:2023年6月25日
お勧め度:★★★★☆ 難易度:C (SS・S・A・B・C・D)
標高:510m 比高:80m (配水池駐車場より)
城跡までの所要時間:15分 駐車場:配水池脇に乗用車5台分
見どころ:堀切、竪堀、切岸、郭、土塁、水路跡
注意事項:特にありません
参考資料:「信濃の山城と館3⃣ 長野・更埴編」(宮坂武男著)、長野県町村誌
付近の城址:荒砥城、出浦城、葛尾城など

入山城遠景。
Posted on 2023/06/28 Wed. 18:03 [edit]
0527
比叡の山砦 (塩尻市宗賀平出) 
◆武田信玄の陣場と伝わる信仰の山◆
山城ブログを始めたのが2009年7月なので、もうすぐ14年目を迎える。最初の頃は、途中で何度止めようかと考えたが、偶然に目にした宮坂武男氏の「図解山城探訪」に頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
宮坂氏のアナログ盤の書籍を、出来る事なら現地を取材して辿り、WEB版の「信濃の山城」を世に知って欲しい」という信仰心にも似た義務感だけが私を突き動かした・・・。
スマホなど無いし、ましてグーグルマップの城跡検索機能などありえない。インターネット検索でも、中世の山城の取り扱いはマサハレさんやsigeさん、ヤブレンジャーのメンバーの皆さん、そしてごく一部の方のHPぐらいだった。
信濃の山城を取り扱うサイトの「はしくれ」を目指して、「少年よ、大志を抱け」的な幻想に必死でしたね・・・(笑)
今回ご案内するのは、塩尻市の「比叡の山砦」(ひいのやまとりで)。古代の集落遺跡として有名な平出遺跡の目と鼻の先にある。

南麓にある比岳當佐神社(ひたけとうさじんじゃ)。神社のご神体は背後の比叡の山(ひいのやま)とされる。
【立地】
宗賀地区南の山地に接するところに孤立した小山がある。これが古来「神なびの山」(かんなびのやま)で、山麓、山頂より祭祀用の土器の出土を見ている。山地より突き出たところにあるために。周囲の眺望はよく、桔梗ヶ原、木曽の谷口方面は良く見渡せる位置である。

今回は北側の中央本線側からのルートで登った。藪で覆われているが、覚悟を決めて突入すると道はあるものです(笑)

国土地理院の地図には登山道(参道?)があるので、道路脇から藪に突っ込むと比較的新しい石碑があり「右へ行け」とある(笑)
【城歴】
古来より「神なびの山」と言われ、塩尻の小坂田山、柿沢の小丸山、中山の中山等と共に、神を招き下ろす山である。比叡の山は「ヒイの山」と発音され、「比叡」は後世の借字とされる。
長野県町村誌の宗賀村の「比叡山」に。「天文年間、武田信玄出陣の節、陣営の地と云い伝ふ。・・・・(攻略)」とある。
武田信玄の陣場になったのは、府中(松本)の小笠原長時を攻めている時か。あるいは木曽氏への侵攻の頃かはっきりしないが、この山の南を抜ける東山道と関係した陣城であったと思われる。

比叡の山砦見取図。(国土地理院の地図に加筆しています)
比高差約50m、九十九折の山道を10分ほど登ると山頂に着く。蔵王大権現の社が勧進された削平地であるが、堀切や段郭等の遺構は見当たらない。

山頂の蔵王大権現。

頂部は東西に細長く削平されている。残念ながら現在は、山頂からの眺望は全く望めない。

山頂の西側にも道形があり、比較的緩い傾斜。堀切などは確認出来なかった。
【城跡】
東西に細長い山頂で、東の麓には平出の泉があり、北東の平地には平出遺跡がある。山頂は東西60m、南北10mの削平地であるが、砦として整地したのか神社を勧進するために整地されたのか判断が難しい。
戦国時代に武田信玄が陣場として使ったのはこの山頂であったのか山麓であったのかは文献や史料等なく不明だが、古来より交通の要衝の地を見下ろす位置にあるこの山が、物見として使われ時には狼煙台として使われたことは想像に難くないであろう。

西側にも道形がある。古代より信仰の山として人々が籠り祈りを捧げたのであろうか。

城跡には三角点がある。(809.4m)
信濃における中世の山城巡りというと、どうしても比高差の厳しい人を寄せつけない山奥の山城に挑戦しないといけないような錯覚に陥るが、このような初級レベルの砦でも充分に楽しめる。徐々にステップアップして経験を積み、中級そして上級クラスに挑みたいが、それは人それぞれなので無理は禁物である。楽しみが苦しみになるようでは、本末転倒であると思う。
≪比叡の山砦≫ (ひえのやまとりで)
築城年代:不明
j築城者・居住者:不明
場所:塩尻市宗賀平出
探訪日:2023年5月25日
お勧め度:★☆☆☆☆ 難易度:C (SS・S・A・B・C・D)
標高:809.4m 比高:47m
城跡までの所要時間:10分 駐車場:無し(邪魔にならないよう路駐)
見どころ:削平地
注意事項:比岳當神社からは道は無く直登らしい。中央本線からは藪だが道形はハッキリ残る。その他のルートは未踏査。
参考資料:「信濃の山城と館4⃣ 松本・塩尻・筑摩編」
付近の城址:妙義山城・上田城・鳴雷城など。古代の史跡公園である平出遺跡は是非とも見学をお勧めしたい。

平出遺跡より見た「比叡の山砦」。縄文人も神の降臨を願い祈りを捧げたという貴重な山である。
山城ブログを始めたのが2009年7月なので、もうすぐ14年目を迎える。最初の頃は、途中で何度止めようかと考えたが、偶然に目にした宮坂武男氏の「図解山城探訪」に頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
宮坂氏のアナログ盤の書籍を、出来る事なら現地を取材して辿り、WEB版の「信濃の山城」を世に知って欲しい」という信仰心にも似た義務感だけが私を突き動かした・・・。
スマホなど無いし、ましてグーグルマップの城跡検索機能などありえない。インターネット検索でも、中世の山城の取り扱いはマサハレさんやsigeさん、ヤブレンジャーのメンバーの皆さん、そしてごく一部の方のHPぐらいだった。
信濃の山城を取り扱うサイトの「はしくれ」を目指して、「少年よ、大志を抱け」的な幻想に必死でしたね・・・(笑)
今回ご案内するのは、塩尻市の「比叡の山砦」(ひいのやまとりで)。古代の集落遺跡として有名な平出遺跡の目と鼻の先にある。

南麓にある比岳當佐神社(ひたけとうさじんじゃ)。神社のご神体は背後の比叡の山(ひいのやま)とされる。
【立地】
宗賀地区南の山地に接するところに孤立した小山がある。これが古来「神なびの山」(かんなびのやま)で、山麓、山頂より祭祀用の土器の出土を見ている。山地より突き出たところにあるために。周囲の眺望はよく、桔梗ヶ原、木曽の谷口方面は良く見渡せる位置である。

今回は北側の中央本線側からのルートで登った。藪で覆われているが、覚悟を決めて突入すると道はあるものです(笑)

国土地理院の地図には登山道(参道?)があるので、道路脇から藪に突っ込むと比較的新しい石碑があり「右へ行け」とある(笑)
【城歴】
古来より「神なびの山」と言われ、塩尻の小坂田山、柿沢の小丸山、中山の中山等と共に、神を招き下ろす山である。比叡の山は「ヒイの山」と発音され、「比叡」は後世の借字とされる。
長野県町村誌の宗賀村の「比叡山」に。「天文年間、武田信玄出陣の節、陣営の地と云い伝ふ。・・・・(攻略)」とある。
武田信玄の陣場になったのは、府中(松本)の小笠原長時を攻めている時か。あるいは木曽氏への侵攻の頃かはっきりしないが、この山の南を抜ける東山道と関係した陣城であったと思われる。

比叡の山砦見取図。(国土地理院の地図に加筆しています)
比高差約50m、九十九折の山道を10分ほど登ると山頂に着く。蔵王大権現の社が勧進された削平地であるが、堀切や段郭等の遺構は見当たらない。

山頂の蔵王大権現。

頂部は東西に細長く削平されている。残念ながら現在は、山頂からの眺望は全く望めない。

山頂の西側にも道形があり、比較的緩い傾斜。堀切などは確認出来なかった。
【城跡】
東西に細長い山頂で、東の麓には平出の泉があり、北東の平地には平出遺跡がある。山頂は東西60m、南北10mの削平地であるが、砦として整地したのか神社を勧進するために整地されたのか判断が難しい。
戦国時代に武田信玄が陣場として使ったのはこの山頂であったのか山麓であったのかは文献や史料等なく不明だが、古来より交通の要衝の地を見下ろす位置にあるこの山が、物見として使われ時には狼煙台として使われたことは想像に難くないであろう。

西側にも道形がある。古代より信仰の山として人々が籠り祈りを捧げたのであろうか。

城跡には三角点がある。(809.4m)
信濃における中世の山城巡りというと、どうしても比高差の厳しい人を寄せつけない山奥の山城に挑戦しないといけないような錯覚に陥るが、このような初級レベルの砦でも充分に楽しめる。徐々にステップアップして経験を積み、中級そして上級クラスに挑みたいが、それは人それぞれなので無理は禁物である。楽しみが苦しみになるようでは、本末転倒であると思う。
≪比叡の山砦≫ (ひえのやまとりで)
築城年代:不明
j築城者・居住者:不明
場所:塩尻市宗賀平出
探訪日:2023年5月25日
お勧め度:★☆☆☆☆ 難易度:C (SS・S・A・B・C・D)
標高:809.4m 比高:47m
城跡までの所要時間:10分 駐車場:無し(邪魔にならないよう路駐)
見どころ:削平地
注意事項:比岳當神社からは道は無く直登らしい。中央本線からは藪だが道形はハッキリ残る。その他のルートは未踏査。
参考資料:「信濃の山城と館4⃣ 松本・塩尻・筑摩編」
付近の城址:妙義山城・上田城・鳴雷城など。古代の史跡公園である平出遺跡は是非とも見学をお勧めしたい。

平出遺跡より見た「比叡の山砦」。縄文人も神の降臨を願い祈りを捧げたという貴重な山である。
Posted on 2023/05/27 Sat. 22:31 [edit]
0514
雨引城 (下水内郡栄村月岡) 
◆仙当城との関連が想定される城が新たに確認された◆
先日、八十二文化財団の機関紙による「特集 山城」のにおける小生の記事で、下水内郡栄村の新たに見つかった「雨引城」(※須坂市にも同名の山城があるので注意)を探索すると宣言していたので、4月30日にお仲間をお誘いして有言実行してきました。
信濃先方衆(小生+ていぴすさん)・馬念さん・えいきさんんも総勢4名。実はこのメンバーでの山城探訪は中野市にある真山城攻略以来なので、9年ぶりという事になる。
「あの時はみんな若かったよね!」なんて慰めの言葉はいらない(笑) 城に向き合う熱き情熱は今も昔も変わらないのだ・・(笑)

栄村に各自現地集合なので、途中時間調整の為に飯山市にある「花の駅 千曲川」に立ち寄りました。
当然ながら「雨天決行」です。午前中には止むような予報でしたが無理でしょうね・・・。(なんか最近の出陣は雨の日多いよね・・・汗)

広大な菜の花畑。GW前半で観光客には生憎の雨模様でしたが、植物たちにとっては恵の雨ですよね。
【雨引城の立地】
栄村の月岡区の山中で、境を接する野沢温泉村の上の平から東に張り出した標高1326.9m三角点のあるピークから北に派生した尾根上に位置する。北側の尾根の麓に二ノ入沢、南側の尾根の麓に入沢川と二つの川に挟まれている。
城域は752mの頂部を主体として東側に二つの尾根が平坦地に向けて張り出すが、城の遺構は北側の尾根沿いに確認出来る。
「さて、行きますか」
集合場所の月岡神社から分乗し、雨引城の尾根の先端(標高500m付近)まで林道を小生とていぴす殿の2台のジムニーを走らせ目見当の登り口脇の道端に適当に乗り捨てて登城開始。

当日のおおよその攻略経路。道迷いの可能性があるのでGPS機能付きの地図アプリは必携。
まあ、山の城探索にかけてはベテランのメンバーですが、雨合羽着て、長靴履いて、WEBにも未だ載っていない城跡に向かう訳です。大体の場所は地図で特定しましたが、道があるのかどうかも不明です・・(汗)
案の定、尾根を辿り始めて10分ほどで伐木用の作業道は消えて、椿系の灌木の立木の藪漕ぎが続きます。まあ身の丈もある熊笹よりは多少マシですが、枝がビシバシと身体に当たるし、豪雪地帯特有の湾曲した木の根っこの歩きづらい事・・・。
都度GPS地図アプリで方向を間違えないように歩くこと100分・・・最初の遺構に辿り着いた。尾根のアプローチ長すぎ!!

立はばかる椿の群生藪を越えて、ようやく標高650m付近で切岸と巨大な畝状の連続竪堀4本を確認する。

自然地形と思いきや、我々歴戦の戦士(?)は、確かに人為的に作られた畝状の連続竪堀であると判断した。(画像に補助線入れました)
【野沢温泉村と栄村箕作を結ぶ交通の要衝】
仙当城の立地もそうだが、「なぜこんな山奥に築城する必要があったのか?」と思う方も多いかと思う。
今でこそ国道117号線が千曲川沿いを走るが、治水の技術の無い時代には川沿いの道などほとんど無かったと思われる。
明治時代になり、鉄道が敷設されるまでの信濃の主な交通路は山道であり、平地や常に氾濫する危険な川沿いを歩くよりも、山の尾根通しに歩き峠を越えて往来したほうが距離はともかくとしても、安全だったのであろう。
鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の栄村と野沢温泉村は市河氏が栄村の志久見に居館を構え、在地土豪として治めていたので、領内の古道の往来も多かったものと推定される。(市河氏の居館はのちに箕作に移転する)

※この見取図に関しては、「栄村村誌」(2022年刊行)の雨引城跡に掲載された遠藤公洋氏の作図を参考し現地踏査の上で作成。
WEB上で「雨引城」(あまびきじょう)の見取図は初公開である。
この見取図を見て、皆さんはこの城の役割についてどう考えるのか非常に興味深い。
実は、今回城跡を探索した4名ですら、意見が分かれてしまい統一した見解も出せなかった。それでいいと思う・・・(笑)

大部隊の駐屯も可能な郭3。かなり幅広い尾根なので自然地形を利用したようにも見えるが、一段下の帯郭状の削平が悩ましい。

堀切㋑から見た郭3方面。畝状連続竪堀㋐との間の巨大な空間とも見てとれる。
「郭3」とは表示してみたものの、ほぼ自然地形でありこの場所の扱いは意見の分かれるところである。
村誌に掲載された遠藤公洋氏の見取図ではここを郭としてはみていないが、この先に我々が認めるところの畝状連続竪堀㋐があるので、ここは郭としての機能を持たせる意図があるように思えたので、あえて郭として表記してみた。

堀切㋑。(中央の土橋より南側) 往時はもっと深い薬研堀だったと思われる。

堀切㋑の中央は土橋になっている。
よく観察してみると、堀切㋑の北側には削平した小さな郭があり背後に竪堀㋒がある。山道じゃないのか?とここも判断が分かれるが、一段上には犬走りのような人工的な削平がある。

3の空間から堀切を経て城の正面の北東へ誘導するために意図的に構築されたのであろうか。
【堀切のみによる空間の意味するもの】
見取図を参照していただけるとお分かりになると思うが、堀切㋑と堀切㋓の間は自然地形で何もない。切岸すら構築していない。
同じことが、城の中枢部との境界を示す堀切㋔と㋓にも共通している。
「あえて、何もしない(加工しない)」意図が見て取れる。
これは、

堀切㋓はかなり鋭利で深い薬研堀。

堀切㋓は長大な竪堀となって北側の斜面を下っている。かなりの土木工事量である。

堀切㋓から見上げた堀切㋔及び郭1への虎口。かなりの傾斜があるのが人工的な加工とは思えない。
【中枢部の防御構造】
前項で述べた「城域を堀切のみで前後を遮断し空間のみで構成する縄張については、今まで見て頂いたとおりで、野尻湖湖畔の野尻城の大手の堀切から中枢部手前の堀切までの漠然と区分した地形がよく似ている。

堀切㋔の南側の遺構は、ある山城との共通点を想い出させるに充分であった・・・。

このような巨大な堀切を目の当たりにした我々の脳裏に去来した山城とは・・。
栄村=仙当城のイメージであり、雨引城が仙当城と1km以内の範疇にある事からしても、その関係性は十分に考慮出来ると思われる。

R状の竪堀。芸術的ですね。
●馬出と虎口周辺の厳しい防御
見取図の郭2はいわゆる「馬出し」であろう。実際は図面より狭い。虎口北側の切岸をL字形土塁で囲み、中央の土橋状の通路の左右に箱堀を置く。この技法は隣の津南町の今井城にも見られる。

郭2から正面の虎口を見上げる。

主郭から見た郭2(馬出し方面)

箱堀㋖は何故かすぐ下を走る堀切㋔と合流させていない。この手法は今井城の堀にも見られる技法だ。

虎口の土塁から見下ろした箱堀㋖の全体(残雪の残っている部分)

L字土塁の内側の箱堀㋕。この手法は北信濃の髻山城に似ている。もっとも髻山城とは規模は比べようにならないが・・・。
郭1の土塁は「狭間」を意識するのか分割されていて、郭2から入る虎口の土塁の内側は横堀状である。郭1の南半分に土塁らしき遮蔽構造は全く無い。自然地形の地山で削平した後は見られない。

虎口から土塁左内側に回り込むように横堀の形状が確認出来る。
●郭1の北西斜面の竪堀
北西斜面には規模の大きい竪堀が2本確認出来る。
もう2本ほどあれば放射状竪堀として、野尻湖の北側に築かれた古海城と縄張上の類似点について検討出来たと思われる。

竪堀㋗

竪堀㋘
●臨時的な拠点城(砦)だった事を示す郭1の削平状況
栄村誌の編纂で雨引城の現地確認と調査にあたられた遠藤公洋氏は、八十二文化財団の機関紙「地域文化 特集山城 2022年 冬号」における寄稿における雨引城の項目で、
「永禄十二年(1569)から天正十年(1582)の間に複数回、栄村と野沢温泉村・木島平村との間が緊張状態に置かれたことが古文書から読み取れる。筆者は雨引城跡を、野沢温泉村の上の平付近から、仙当城(せっとじょう)がある栄村の月岡付近へと侵入を図る勢力が「足溜まり」として設営した臨時の城(陣城)と考えている。」
と見解を述べられている。

郭1の中心部(中央左の人影は馬念さん)。かなり広いが地山のままである。

郭1の南側。特に何の防御構造も無く、やはり自然地形のままだ。
【現地踏査した自分としての所感】
㋐の畝状連続竪堀群から郭1までの城域は、尾根全体を使いかなり広いのだが、境界線(塁線)としての堀を穿ち中枢部付近以外については、空間を形成し最小限の普請にとどめている。
この事象は上杉が改修にかかわったと見られる北信濃の中世城郭と共通しているし、この付近の仙当城や今井城、赤沢城と共通のパーツも見られる。(赤沢城も土塁の内側に掘を持つ郭がある)縄張の指向性としれば、遠藤先生の見解通り、栄村の月岡方面に対して作られた城であり、仙当城の最終段階の改修と同時期と考えられるが、実際に使われた期間は短期間だったと推定される。
栄村の志久見や箕作は室町時代より市河氏の領地であり、甲越紛争の係争地として市河氏は水面下では武田・上杉に対して両仕えとなるも、繋がりの深かった信玄の勧めに従い一時的に館を栄村の箕作から野沢温泉村に移している。この時に旧領への帰還を試みる為に雨引城が築かれたかと思ったが、やっぱ違うかなあと・・(笑)
築城主体が上杉方なので、「御館の乱」あたりで北条との同盟が決裂して、北条の侵攻を想定し勝頼と裏取引して野沢温泉村経由で仙当城や、今井城、赤沢城の改修補強の兵站拠点として臨時に築いた陣城と想像するのも面白いと思う。
あっ、そうそう、それなら武田氏滅亡後の織田軍の侵入に備えてってのもあるのかなあ。
みなさんはどう思いますか?
≪雨引城≫ (あまびきじょう)
築城年代:不明
j築城者・居住者:不明
場所:長野県下水内郡栄村月岡
探訪日:2023年4月30日
お勧め度:★★★★☆ 難易度:S (SS・S・A・B・C・D)
標高:760m 比高:244m
城跡までの所要時間:90分 駐車場:無し(邪魔にならないよう路駐)
見どころ:畝状竪堀群、堀切、L字土塁、横堀、箱堀など
注意事項:登山道はありません。単独は避ける(クーさん生息地)、GPS地図アプリ必携。
参考資料:「栄村村誌」(2022年) 八十二文化財団機関紙「地域文化 No143 特集山城 10P 新しい山の城像を求めて(遠藤公洋氏)」
付近の城址:仙当城、城坂城、今井城、赤沢城など
SpecialThanks:ていぴす殿、馬念殿、えいき殿

登り口付近から見た雨引城の遠景。城跡の中心部は尾根の奥にあるため麓からは見えない。
グーグルマップに新たに場所を登録してみました。
先日、八十二文化財団の機関紙による「特集 山城」のにおける小生の記事で、下水内郡栄村の新たに見つかった「雨引城」(※須坂市にも同名の山城があるので注意)を探索すると宣言していたので、4月30日にお仲間をお誘いして有言実行してきました。
信濃先方衆(小生+ていぴすさん)・馬念さん・えいきさんんも総勢4名。実はこのメンバーでの山城探訪は中野市にある真山城攻略以来なので、9年ぶりという事になる。
「あの時はみんな若かったよね!」なんて慰めの言葉はいらない(笑) 城に向き合う熱き情熱は今も昔も変わらないのだ・・(笑)

栄村に各自現地集合なので、途中時間調整の為に飯山市にある「花の駅 千曲川」に立ち寄りました。
当然ながら「雨天決行」です。午前中には止むような予報でしたが無理でしょうね・・・。(なんか最近の出陣は雨の日多いよね・・・汗)

広大な菜の花畑。GW前半で観光客には生憎の雨模様でしたが、植物たちにとっては恵の雨ですよね。
【雨引城の立地】
栄村の月岡区の山中で、境を接する野沢温泉村の上の平から東に張り出した標高1326.9m三角点のあるピークから北に派生した尾根上に位置する。北側の尾根の麓に二ノ入沢、南側の尾根の麓に入沢川と二つの川に挟まれている。
城域は752mの頂部を主体として東側に二つの尾根が平坦地に向けて張り出すが、城の遺構は北側の尾根沿いに確認出来る。
「さて、行きますか」
集合場所の月岡神社から分乗し、雨引城の尾根の先端(標高500m付近)まで林道を小生とていぴす殿の2台のジムニーを走らせ目見当の登り口脇の道端に適当に乗り捨てて登城開始。

当日のおおよその攻略経路。道迷いの可能性があるのでGPS機能付きの地図アプリは必携。
まあ、山の城探索にかけてはベテランのメンバーですが、雨合羽着て、長靴履いて、WEBにも未だ載っていない城跡に向かう訳です。大体の場所は地図で特定しましたが、道があるのかどうかも不明です・・(汗)
案の定、尾根を辿り始めて10分ほどで伐木用の作業道は消えて、椿系の灌木の立木の藪漕ぎが続きます。まあ身の丈もある熊笹よりは多少マシですが、枝がビシバシと身体に当たるし、豪雪地帯特有の湾曲した木の根っこの歩きづらい事・・・。
都度GPS地図アプリで方向を間違えないように歩くこと100分・・・最初の遺構に辿り着いた。尾根のアプローチ長すぎ!!

立はばかる椿の群生藪を越えて、ようやく標高650m付近で切岸と巨大な畝状の連続竪堀4本を確認する。

自然地形と思いきや、我々歴戦の戦士(?)は、確かに人為的に作られた畝状の連続竪堀であると判断した。(画像に補助線入れました)
【野沢温泉村と栄村箕作を結ぶ交通の要衝】
仙当城の立地もそうだが、「なぜこんな山奥に築城する必要があったのか?」と思う方も多いかと思う。
今でこそ国道117号線が千曲川沿いを走るが、治水の技術の無い時代には川沿いの道などほとんど無かったと思われる。
明治時代になり、鉄道が敷設されるまでの信濃の主な交通路は山道であり、平地や常に氾濫する危険な川沿いを歩くよりも、山の尾根通しに歩き峠を越えて往来したほうが距離はともかくとしても、安全だったのであろう。
鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の栄村と野沢温泉村は市河氏が栄村の志久見に居館を構え、在地土豪として治めていたので、領内の古道の往来も多かったものと推定される。(市河氏の居館はのちに箕作に移転する)

※この見取図に関しては、「栄村村誌」(2022年刊行)の雨引城跡に掲載された遠藤公洋氏の作図を参考し現地踏査の上で作成。
WEB上で「雨引城」(あまびきじょう)の見取図は初公開である。
この見取図を見て、皆さんはこの城の役割についてどう考えるのか非常に興味深い。
実は、今回城跡を探索した4名ですら、意見が分かれてしまい統一した見解も出せなかった。それでいいと思う・・・(笑)

大部隊の駐屯も可能な郭3。かなり幅広い尾根なので自然地形を利用したようにも見えるが、一段下の帯郭状の削平が悩ましい。

堀切㋑から見た郭3方面。畝状連続竪堀㋐との間の巨大な空間とも見てとれる。
「郭3」とは表示してみたものの、ほぼ自然地形でありこの場所の扱いは意見の分かれるところである。
村誌に掲載された遠藤公洋氏の見取図ではここを郭としてはみていないが、この先に我々が認めるところの畝状連続竪堀㋐があるので、ここは郭としての機能を持たせる意図があるように思えたので、あえて郭として表記してみた。

堀切㋑。(中央の土橋より南側) 往時はもっと深い薬研堀だったと思われる。

堀切㋑の中央は土橋になっている。
よく観察してみると、堀切㋑の北側には削平した小さな郭があり背後に竪堀㋒がある。山道じゃないのか?とここも判断が分かれるが、一段上には犬走りのような人工的な削平がある。


3の空間から堀切を経て城の正面の北東へ誘導するために意図的に構築されたのであろうか。
【堀切のみによる空間の意味するもの】
見取図を参照していただけるとお分かりになると思うが、堀切㋑と堀切㋓の間は自然地形で何もない。切岸すら構築していない。
同じことが、城の中枢部との境界を示す堀切㋔と㋓にも共通している。
「あえて、何もしない(加工しない)」意図が見て取れる。
これは、

堀切㋓はかなり鋭利で深い薬研堀。

堀切㋓は長大な竪堀となって北側の斜面を下っている。かなりの土木工事量である。

堀切㋓から見上げた堀切㋔及び郭1への虎口。かなりの傾斜があるのが人工的な加工とは思えない。
【中枢部の防御構造】
前項で述べた「城域を堀切のみで前後を遮断し空間のみで構成する縄張については、今まで見て頂いたとおりで、野尻湖湖畔の野尻城の大手の堀切から中枢部手前の堀切までの漠然と区分した地形がよく似ている。

堀切㋔の南側の遺構は、ある山城との共通点を想い出させるに充分であった・・・。

このような巨大な堀切を目の当たりにした我々の脳裏に去来した山城とは・・。
栄村=仙当城のイメージであり、雨引城が仙当城と1km以内の範疇にある事からしても、その関係性は十分に考慮出来ると思われる。

R状の竪堀。芸術的ですね。
●馬出と虎口周辺の厳しい防御
見取図の郭2はいわゆる「馬出し」であろう。実際は図面より狭い。虎口北側の切岸をL字形土塁で囲み、中央の土橋状の通路の左右に箱堀を置く。この技法は隣の津南町の今井城にも見られる。

郭2から正面の虎口を見上げる。

主郭から見た郭2(馬出し方面)


箱堀㋖は何故かすぐ下を走る堀切㋔と合流させていない。この手法は今井城の堀にも見られる技法だ。

虎口の土塁から見下ろした箱堀㋖の全体(残雪の残っている部分)

L字土塁の内側の箱堀㋕。この手法は北信濃の髻山城に似ている。もっとも髻山城とは規模は比べようにならないが・・・。
郭1の土塁は「狭間」を意識するのか分割されていて、郭2から入る虎口の土塁の内側は横堀状である。郭1の南半分に土塁らしき遮蔽構造は全く無い。自然地形の地山で削平した後は見られない。

虎口から土塁左内側に回り込むように横堀の形状が確認出来る。
●郭1の北西斜面の竪堀
北西斜面には規模の大きい竪堀が2本確認出来る。
もう2本ほどあれば放射状竪堀として、野尻湖の北側に築かれた古海城と縄張上の類似点について検討出来たと思われる。

竪堀㋗

竪堀㋘
●臨時的な拠点城(砦)だった事を示す郭1の削平状況
栄村誌の編纂で雨引城の現地確認と調査にあたられた遠藤公洋氏は、八十二文化財団の機関紙「地域文化 特集山城 2022年 冬号」における寄稿における雨引城の項目で、
「永禄十二年(1569)から天正十年(1582)の間に複数回、栄村と野沢温泉村・木島平村との間が緊張状態に置かれたことが古文書から読み取れる。筆者は雨引城跡を、野沢温泉村の上の平付近から、仙当城(せっとじょう)がある栄村の月岡付近へと侵入を図る勢力が「足溜まり」として設営した臨時の城(陣城)と考えている。」
と見解を述べられている。

郭1の中心部(中央左の人影は馬念さん)。かなり広いが地山のままである。

郭1の南側。特に何の防御構造も無く、やはり自然地形のままだ。
【現地踏査した自分としての所感】
㋐の畝状連続竪堀群から郭1までの城域は、尾根全体を使いかなり広いのだが、境界線(塁線)としての堀を穿ち中枢部付近以外については、空間を形成し最小限の普請にとどめている。
この事象は上杉が改修にかかわったと見られる北信濃の中世城郭と共通しているし、この付近の仙当城や今井城、赤沢城と共通のパーツも見られる。(赤沢城も土塁の内側に掘を持つ郭がある)縄張の指向性としれば、遠藤先生の見解通り、栄村の月岡方面に対して作られた城であり、仙当城の最終段階の改修と同時期と考えられるが、実際に使われた期間は短期間だったと推定される。
栄村の志久見や箕作は室町時代より市河氏の領地であり、甲越紛争の係争地として市河氏は水面下では武田・上杉に対して両仕えとなるも、繋がりの深かった信玄の勧めに従い一時的に館を栄村の箕作から野沢温泉村に移している。この時に旧領への帰還を試みる為に雨引城が築かれたかと思ったが、やっぱ違うかなあと・・(笑)
築城主体が上杉方なので、「御館の乱」あたりで北条との同盟が決裂して、北条の侵攻を想定し勝頼と裏取引して野沢温泉村経由で仙当城や、今井城、赤沢城の改修補強の兵站拠点として臨時に築いた陣城と想像するのも面白いと思う。
あっ、そうそう、それなら武田氏滅亡後の織田軍の侵入に備えてってのもあるのかなあ。
みなさんはどう思いますか?
≪雨引城≫ (あまびきじょう)
築城年代:不明
j築城者・居住者:不明
場所:長野県下水内郡栄村月岡
探訪日:2023年4月30日
お勧め度:★★★★☆ 難易度:S (SS・S・A・B・C・D)
標高:760m 比高:244m
城跡までの所要時間:90分 駐車場:無し(邪魔にならないよう路駐)
見どころ:畝状竪堀群、堀切、L字土塁、横堀、箱堀など
注意事項:登山道はありません。単独は避ける(クーさん生息地)、GPS地図アプリ必携。
参考資料:「栄村村誌」(2022年) 八十二文化財団機関紙「地域文化 No143 特集山城 10P 新しい山の城像を求めて(遠藤公洋氏)」
付近の城址:仙当城、城坂城、今井城、赤沢城など
SpecialThanks:ていぴす殿、馬念殿、えいき殿

登り口付近から見た雨引城の遠景。城跡の中心部は尾根の奥にあるため麓からは見えない。
グーグルマップに新たに場所を登録してみました。
Posted on 2023/05/14 Sun. 12:35 [edit]
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