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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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耕雲禅寺の供養塔群  

◆中世の真田郷における曲尾氏の存在の根拠なのか?◆

真田三代といえば、通常は「真田幸隆(幸綱)・真田昌幸・真田幸村」を指し、中でも真田幸隆は真田氏中興の祖として、歴史好きな諸氏及び世間に広く認識されている。

真田氏の系譜として残るのは、「すべて真田氏は、小県郡東部町の名族海野氏の直系 として書かれている」このことである。

が、真田氏 とい う名の文献上の初見は、 『大塔物語 』である。

周知のように『 大塔物語 』は応永 7年 (1400)更 級郡篠の井 (現長野市)で行われた信濃守護小笠原長秀 と信濃の国人層 といわれた在地土豪団との戦い一―これを大塔合戦 と通称している一 を物語 り風に記述 した もので、物語ではあるが、史実にもかなり忠実な点があるとされている。

耕雲禅寺 (2)1
上田市真田町の大庭区公民館(多目的集会所)の脇に立つ史跡案内図。

その国人層の中心 となったのは、村上氏・ 海野氏・ 高梨氏・ 井上氏など大体東北信の豪族であったが、 この外に仁科・ 桶津・ 春 日 ・香坂・ 西坂・ 落合・ 小田切・ 窪寺等とい う土豪たちが組織 していた大文字一揆 (「 大」 とい う文字の旗 の もとに結集 した
同志の意)と 称す るものがあった。 『大 塔物語 』を見 ると、 この大文字一揆の一方の将は小県の禰津氏で、 これが大塔城の一の攻め口の攻撃を担当 し、その部下の将 として三村・ 桜井 ・別府・小田中・ 実田(さなだ)・横尾・ 曲尾等の諸将が奮戦 した様子を記 している。

耕雲禅寺 (1)1
案内図の拡大。18年前の説明図とは思えない程度の良さを保持している。小生も今回初めてみました・・(汗)

現在の真田の郷と呼ばれる地域は、西側の傍陽地区を横尾氏と洗馬氏(千葉氏?)、傍陽川と神川の合流する地点を曲尾氏、長(おさ)と呼ばれる東側を実田氏(さなだ 真田)がそれぞれ海野氏の被官として治めていたと推定される。(真田氏は実相院のある洗馬城の麓に館を構え、そこが出自とする説もある)

耕雲禅寺 (3)1
地元では「耕雲寺」と呼ばれるが、正式名称は「耕雲禅寺」(こううんぜんじ)で臨済宗妙心寺派。

耕雲禅寺の本尊は阿弥陀如来。製作年代は室町時代中期と推定され、像底部に元和八年(一六二二)と後補されたときの年号が銘記されている。気品あふれる重厚な坐像で町の重要文化財に指定されている。

耕雲禅寺 (7)1
時の流れを感じる本堂の佇まいでございます。

とうとう「らんまる攻城戦記」も、神社仏閣の趣味に突入したのか?とお思いの皆さん、中世城郭のバックグランドには当時の神仏(宗教)との関連や豪族の信仰した宗教や墓地もに触れなければならないという大原則をお忘れなく・・・

まあ、今回はそんな大それたテーマにするつもりはなく、在地土豪の墓が特定されることで、謎のベールに包まれた真田一族のルーツの出自の補強につながる・・・そんな感じでしょうか・・・(笑)

耕雲禅寺 (8)1
お寺の本堂の東側の敷地には、驚くほどの数の宝篋印塔と五輪塔が・・・。

ここ耕雲禅寺の供養塔群の存在を知ったのは、松尾古城の麓にある「日向畑遺跡」の発掘調査報告書(旧真田町教育委員会発刊)を最近読み、日向畑遺跡の埋葬者の特定に際して、耕雲禅寺の供養塔を知った次第でありますw

耕雲禅寺 (10)1
この寺の開基は村上義清とあるが、墓地と菩提寺はセットとするのが普通なので、曲尾氏の建立と推定される。

【寺の裏山の地滑りにより発見された宝篋印塔と五輪塔】

この供養塔群、最初からここにあったわけではなくて、昭和三十五年に発生した寺の裏山の地滑りにより偶然発見されたものだという。地滑りした土砂の復旧に伴い、大量に地中から発見されたものだという。
残念ながら、発見された時に発掘調査は行われず、掘り出された供養塔が現在の位置に適当に置かれたらしい。元の墳墓の場所は特定されずに現在に至っており、非常に惜しい事をした。

曲尾氏の居館推定地や曲尾氏の詰城とされる根古屋城(曲尾城)に近い事から、旧真田町教育委員会では曲尾氏の墳墓址ではないかと推測している。

耕雲禅寺 (11)1
宝篋印塔と五輪塔のオンパレード。鎌倉時代より武家は死後火葬され、菩提寺により墳墓に葬られたので、この辺りを収めた一族のものであろう。

宝篋印塔の一基に文亀四年(1504)と銘記があるので、夥しい供養塔群は室町時代~戦国時代のものと推定されている。

【戦国時代の曲尾氏】

坂城に本拠地を置いた村上義清が、東信濃の海野氏の所領に対して侵攻を開始し、応仁元年(1467)に千葉氏の洗馬城を攻め落とす。この時に曲尾氏と横尾氏は村上氏に従属し所領を安堵されたらしい。

武田信玄の家臣となり、天文二十二年に謀略をもって信玄ですら落とせなかった村上方の砥石城の乗っ取りに成功した真田幸隆は真田の郷に所領を回復。村上氏が越後に落ち延びると、曲尾氏は真田氏に従い、真田信之の松代転封に際しては帰農したというが、確証はない。

耕雲禅寺 (12)1
バラバラに出土した宝篋印塔と五輪塔を組み立てるだけでも、結構大変だったと思うのは小生だけだろうか・・・(笑)

耕雲禅寺 (16)1
傍陽川の北側から見た根古屋城(曲尾城)。神川との合流地点に築かれたこの山城は、戦略的にも重要な拠点城であった。

『耕雲禅寺の供養塔群』

・駐車場は無いので、大庭区公民館に止めさせていただこう
・わざわざ呼び出す必要はないが、お寺の住職や近所の方に会ったら挨拶は忘れずに
・付近には根小屋城(高い城、低い城)、洗馬城、尾引城(横尾城)、打越城もあるので、訪ねてみましょう。





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Posted on 2022/06/29 Wed. 21:01 [edit]

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山城巡り×アウトドアの可能性を探る?  

◆山城探索に、ソロきゃん、ゆるキャンとのコラボの可能性はあるのか?◆

「やってみなければ、可能性の有り無しなんて語れない・・・・」

コロナ禍の前から火が付いていたアウトドアのキャンプブームが、コロナ禍でイッキに加速している。
上田市周辺も新たに営業開始したキャンプ場が増えている。小生の娘夫婦もテント一式を買い揃えて、子供とアウトドアライフを満喫しているようだ。

山城巡りだって、健全なアウトドアの趣味なのに、どこがどう違うのだろうか?(←いや、そういう短絡的な話ではないと思うが・・・汗)

新しいブームには乗っかりたい小生なので、今回は珍しく多額の投資をしてブームに挑戦してみることにした・・・(笑)

カーサイドシェルター (1)1
今回購入したテント老舗店Ogawa製のカーサイドシェルター。収納時のコンパクトさには驚く。

小生の城巡りは基本的にジモティーなので、全国区の皆さんの苦労はわからないのですが、記事やSNSなんか拝見すると、格安ビジネスホテルや車中泊等で経費節減に努める方が多いみたいですね。この趣味もお金がかからないというのはタテマエで、実際には燃料費、高速代、ホテル代等々、案外経費がかさばるというのが事実のようです。

カーサイドシェルター (7)1
家の中で試しに組み立てたカーサイドシェルター。twitterに投降したら、そこまでやるか?と反響がありました・・(笑)

当初は、車の屋根と連結する簡易なタープでもいいかなあーと思いましたが、YouTubeで検索すると、車に横付けで雨風しのげるカーシェルターが一石二鳥の優れものみたいな評価だったし、値段もリーズナブルだったので、そちらを購入しました。

カーサイドシェルター (8)1
昨年モデルチェンジした最新タイプ。実はメーカー直販サイトは品切れで、流通も少なく少し高めでしたが何とか購入出来ました。

【車中泊用としては最強のコスパ】

「普通にタープとテントを別々に買えばいいじゃん!」

それはそうなのだが、カミさんのスぺーシア・ギアは座席がフルフラットになるし。車中泊のが万が一における安全性は高いので、カーサイドシェルターのが使い勝手に優れているという事でのチョイスとなった。(タープとハーフテントの兼用という感じかしら)

もちろんシェルターの天井部分の取り付け位置が可変式なので、普通車のワンボックス車や軽自動車のハイトワゴン、ジムニーなどにも対応できるし、シェルターの内部空間は広いので、コットを置いても大丈夫ですw

カーサイドシェルター (18)21
車高約180cmあるスペーシア・ギアに接続する本来の使い方。

カーサイドシェルター (20)1
いびきや寝言、歯ぎしり等で、車中泊が苦手な方はコットでも余裕のスペースかと・・・(笑)

ジムニーに取り付けたら、どんな感じなのだろうとご心配の方々に写真で解説しますね・・・(^-^)

カーサイドシェルター (21)1
ジムニーの車高はそれほど変わりないが、接続する天井部分の長さはハイトワゴンのスペーシアよりも短めなので、テント側の取り付け穴で調整が必要になる。

カーサイドシェルター (23)1
ジムニーはスライドドアではないので、車中泊の使い勝手はあまり良くないので、車両のバックドアにカーサイドシェルターを接続するのもありかと。

最近は、オートキャンプ場でも車中泊を断るところが増えているという。
原因としては、夜遅くまでのエンジン音、スライドドアの開閉時の警告音などがあるという。キャンプの基本が守れない奴は退場でよい。防犯上は車中泊がお勧めなのだが、心無いキャンパーにより、車中泊が締め出されるのは時代に逆行すると思うが
どうだろうか。

【デイキャンプの休息所としての活用】

カーサイドシェルターの第二のメリットは、タープよりも幅広い活用方法であろうか。
シェルター仕様なので、収容人数には制限があるが、車が止められないキャンプ場でもタープとして使える。

カーサイドシェルター (14)1
従来の車の天井部の接続部分は、タープやテント用ポール2本を支柱として利用すると単独のハウスになる。

カーサイドシェルター (15)1
デイキャンプなら大人二人でもゆっくりの広さである。

カーサイドシェルター (16)1
両サイドの幕は折りたためるので、タープ同様開放感もバッチリです。

カーサイドシェルター利用の注意点としては、カータープとは違い、その形状から風の影響を受け易いという事です。
設営時はしっかりロープで固定して、風の強い時は場合によっては撤収の判断も必要になります。
飛ばされたら洒落にもなりません・・・(汗)


【車中泊に向かないジムニーの番外編】

残念ながら、ジムニーは車中泊には不向きです。いくらマットを敷き詰めても無駄です。睡眠不足になる事を保証します・・・(笑)

「じゃあ、どうすればいいのさ?」

コットを購入してカーサイドシェルターの中で寝るという選択肢でしょうか。ソロキャンなら問題ないと思います・・(^-^)

カーサイドシェルター (28)21 カーサイドシェルター (30)1
全長190cm、荷重180kg。木製でお洒落なコット。ハイ仕様なので、椅子としても使えます。ちょっとデカい。


つらつらと語ってきましたが、如何でしたでしょうか?

「あんたが、この1年かけてレポートしたら、ええやん!!」

まあ、そりゃあそうだですネ(笑)

時々レポート記事を載せたいと思います・・・・・(笑)。

Posted on 2022/06/23 Thu. 23:38 [edit]

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大野田城 (大町市美麻大塩)  

◆天正十一年三月に再興された大野田城はここなのか?◆

最近、地元のケーブルテレビ局で「上田市行政チャンネル」の番組が毎日放送されるようになり、小生の出演する山城動画番組が2時間おきに放映される週もあったりするので、顔見知りの方や取引先のお客様から声をかけてもらうケースが多くなりました。
(番組の内容はYouTube版と全く一緒です)

まあ、地元番組なので、ローカルの域を出る事はなくても、「面白そうだね・・」と思って関心をもっていただけるだけでラッキーだと思ってます。人間、謙虚でないといけません・・・(笑)

今回ご案内するのは、訪問するタイミングを失って延々と引き延ばしてきた大町市美麻の大野田城。先日依頼を受けた「あおれんじゃあ師匠」の千見城アテンドのついでにようやく念願かなって訪問出来た次第。

大野田城 (2)1  大野田城 (1)1
大野田城の登り口。カーブの先に読めない梵字の道標らしきものがあるのでそれが目印。

大野田城 (44)1
カーブの手前から奥に進む道があるので、そこを進み九十九折(つづらおり)の道をひたすら登っていく。かつての搦手と思われる。

【立地】

大町市美麻大塩にあり、仁科三湖の木崎湖の東方で、旧信州新町との境に位置する長者山(1160m)の谷筋を隔てた西側の嶺上に大野田城がある。一帯の山は険しく、尾根周辺は絶壁に近く容易に近づく事はできない。
大野田城の位置する場所は、当信川と金熊川の谷が深いが、往時は信州新町左右(そう)と美麻村を結ぶ山道が通り、仁科口にも通じる重要な交通の要衝でもあった。

仁科口分布図1
周辺の主要な城や砦との位置関係。長者山から東へ約5kmで牧ノ島城、北に約5kmで仁科口の千見城。

大野田城 (12)1
搦手から段郭(畑の跡か?)を抜けると尾根上に郭5。直線距離で約100mほどあろうか。一時的な兵の駐屯地としてはありかと。

大野田城見取図①
この険しい信濃の山脈において、城域が直線距離にして約400mにも及ぶ山城は余り例がない。※図は左が北、右が南なので注意

【城主・城歴】

「信府統記」の「大塩山大ぬた古城地(大塩村ヨリ卯ノ方二十九町)、本城ノ平(南北六十九間、東西七間)、二ノ平(四間四方)、三ノ平(六間四方)、同平(東西六間、南北五間)、同平(東西十三間、南北七間)、此城山ノ地、今ハ大塩村・切明ミ村・高地村三ケ村持チ分へカカレリ。城主所の者ハ仁科氏築カレシ城ト云イ伝フ。一説木曽義仲ノ二男原信濃守源重義此城ヲ築テ居城セシトモアリ」とある。義仲の残党が、この辺に隠れ住んだ事はあったにしても、その時代のものではない事はあきらかである。

地形や古道、かつての集落の分布から見ると、安曇野を拠点としていた仁科氏に関する山城と推定される。この地域では、千見城に次ぐ規模と普請なので、戦国末期まで使われたのであろう。
安曇野の仁科氏が武田に降り、その後は上杉方が抑えていた千見城を攻略するために武田も使用したものと思われる。
千見城が武田方となり。仁科口から上杉が駆逐されたのちは放置されていたと推定される。

大野田城 (3)1  大野田城 (4)1
北端の堀切㋔

大野田城 (5)1  大野田城 (6)1
堀切㋕。この先は断崖になるので、そこまで用心するのかい、って感じですね。

天正十年、本能寺の変で織田信長が倒れ、その後勃発した天正壬午の乱で武田遺領の信濃は徳川・北条・上杉の草刈り場となった。北条と徳川の和睦により天正壬午の乱は終結したかにみえたが、その後も信濃各地では争奪戦が続いた。
徳川のバックアップを受けた小笠原貞慶は、長時時代の旧領を回復し安曇野の仁科口を抑える千見城に迫った。
いち早く川中島四郡を奪取した上杉景勝は、麻績城、青柳城を落とし、犀川の牧ノ島城に芋川親正を城将として入れ、仁科口の千見城を抑える事に成功した。
小笠原貞慶は、上杉方が抑えている旧領の麻績城・青柳城及び仁科口の千見城の回復に向けて上杉軍へ攻撃を繰り返した。

天正十一年三月、上杉景勝は敵方との境目に砦を築くことを企図し、牧ノ島城将の芋川親正に命じた。芋川親正は砦の場所を選定し絵図面を添えて景勝に報告した。景勝は申請された大野田砦の再興を許可し、島津氏を援軍として派遣したことが文書として残るという。

さて、この再興された境目の大野田砦は何処を指すのか?というのが一時話題となり、麻績村の山崎砦(付近に大野田の地名)、安曇野の大野田、旧美麻村の大野田城の三か所が候補にあがったという。

この件についての考察は、整理のつかない小生の言葉よりも、小生の山城ライフに多大なる影響を与えていただき尊敬する馬念さんのブログ「古城の風景」の記事が詳しいので、そちらをご参考に願います。
大野田城(砦)はどこ? ブログ「古城の風景」より

大野田城 (14)1
北側の城域との中間地点には段郭。耕作地化によるものとの考えもあるが、この山奥まで開墾したのかは疑問である。

大野田城 (17)1
搦手からの登り口の道にに「折れ」を付ける作事は、往時の改修の址であろうか。

大野田城 (19)1
南側と北側の城域をつなぐ一騎掛けの尾根。途中に門があったかもしれない。

大野田城 (20)1
両サイドが絶壁となる一騎掛けの尾根。北側の城域と南側の城域を接続するのだが、この尾根だけで約100mは続く。

【城跡】

南北に細長い尾根の全体約400mを城域としているが、北側は駐屯地、南側が中枢部といった役割分担であろうか。南北の城域をつなぐ尾根は約1007mほどあり、両側は切り立っているので、城攻めとなれば南尾根の大手筋か、北側の搦手方面のみとなる。
水の手は城内には見当たらないので天水溜めがあったのかもしれない。

この城を再興したとすれば、北側の城域と思われる。南の中枢部は堀切二条を備えるが、構えも緩くあまり改修されたとは思えない。

大野田城 (23)1
西斜面に向けて片堀となる堀切㋓。

大野田城 (24)1  大野田城 (26)1
主郭背後の堀切㋒。落差を利用している。

主郭は尾根の最高地点にあり、21×6の長方形で二段になり、その先を堀切で守っている。
そこからさらに郭2,郭3,郭4と三つの郭が続く。郭4の先を堀切㋐で断ち切るが、その先にも緩い削平地が見られるので、その先に繋がる山道へ備えたものかもしれない。大手はこちらとみて間違いないと思われる。

大野田城 (27)1 大野田城 (28)1
大野田城 (29)1 大野田城 (30)1
21×6の郭1。

大野田城 (31)1
上巾5mの堀切㋑。

大野田城 (33)1
堀切㋑の断面。

南の城域は仁科時代、あるいは武田時代における千見城の支城としての縄張に少し手を加えた程度のもの思われる。
あまりメリハリがなく、南側の最終部分は堀切も段郭も中途半端な造作のまま放棄されたように見受けられる。鳴り物入りで再興されたが、千見城の一時的な支城で小笠原に備えたが、千見城の争奪戦が始まり安曇野方面が完全に小笠原に抑えられると放棄されたと思われる。(あくまで推定の域は出ないが・・・)

大野田城 (34)1
郭2。削平がかなり曖昧なまま。

大野田城 (35)1
郭3。(15×11)

大野田城 (36)1
曖昧な削平の郭4(23×8)
大野田城 (38)1
いかにも造成中に放棄されたような印象の郭4。

大野田城 (39)1
堀切㋐(上巾11m)。土砂に埋もれた分を差し引いても鋭さとやる気が感じられない・・・(汗)

大野田城 (41)1
南端の大手道の処理。ここも造成しかけて中止したような印象がぬぐえない。

旧美麻村には、戦国時代に築かれたであろうと思われる数多くの砦や物見が点在する。

それは、ここが戦国時代には山間部でありながら集落が数多く存在し、交通の要衝であったことを物語っている。
天正壬午の乱で仁科口の千見城を奪取した上杉景勝は、信玄により追われた父の長時の旧領回復に執念を燃やす貞慶を警戒しており、千見城防衛の支城として大野田城の再興を命じた。この砦が南に向けた縄張であることは、安曇野から北上する小笠原に備えた事を如実に物語る。

≪大野田城≫ (おおのだじょう 大ぬた城)

標高:998m 比高:260m (川下県道より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:大町市美麻大塩
攻城日:2022年5月7日
お勧め度:★★★☆☆ 難易度:A (SS・S・A・B・C・D)
館跡までの所要時間:20分 駐車場:無し(路駐)
見どころ:堀切、郭など
注意事項:単独での訪問は避ける事
参考文献:「信濃の山城と館⑦安曇・木曽編」(宮坂武男著)
付近の城址:二重城、大塩城、など
Special Thanks:あおれんじゃあ師匠



大野田城 (47)1
西側から見た大野田城の南側城域。400mに及ぶ城域の全景を撮影できる場所は見つけられなかった。

Posted on 2022/06/12 Sun. 19:56 [edit]

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中世山城の遺構を破壊する松くい虫の脅威  

◆城跡を後世に残し伝える事に直面する課題◆

素人に毛の生えたような中世山城探訪を継続して気が付けば十数年も経つが、途中では何故か色々と人的破壊に晒された城跡の保全にも人知れず関わってきました・・・・。(白馬村の三日市場城や佐久市の志賀城など)

戦国時代の定義は色々とあり、応仁の乱(1467)~豊臣秀吉が小田原征伐を終えた1590年までの約120年間とみるのが一般的なようです。全国に3万~4万あるといわれる中世山城は、各地域によってばらつきがあるが、おおよそ後半の50年~80年ぐらいの使用とみるのが妥当なのかなあーと個人的には思っています。(まあ、短期的な使い捨ての陣城みたいな特殊物件ももありますけど・・・汗)

今回は、山城の保存整備における現在の人的破壊要素以外の遺構損壊の例について考えてみたいと思います。

早落城 (1)1
松本市本郷洞の「狐屋敷跡」。ここには早落城の家臣の屋敷があったと伝わる。(狐はスパイの隠語)

長野県に分布する中世城館で、いわゆる山城と呼ばれ、麓との比高差のある山城において、松林が城跡を覆っているケースが東信濃、中信濃に多く見られます。

もちろん、築城当時は山城の中枢部は伐木され木の根も掘り起こされて、敵が攻めにくくなるように地肌がむき出しの状態であったが、戦の世が終わり幕府から一国一城令が発せられると、役目を終えて廃城となりそのまま破城されることもなく放置された山城がほとんどだったと思われます。使われなくなった山城は見向きもされずに原野に戻ったのでしょうね。

このころから江戸時代中期ぐらいまでは、全国の森林は消費される一方で、植林や再生といった考え方がほとんどなかったようで、ようやく戦後、禿山になった各地の森林に杉や松が植林され、森が再生されました。里山の整備も徐々に進んでいきました。

今回ご紹介する山城は、自然の環境変化による遺構保存の難しさを共有させていただくためで、松本市内にある「早落城」を例としてご案内したいと思います。

※過去の早落城の記事はこちらをご参照ください⇒早落城(2011年)

早落城 (3)1
11年前も今も変わらぬ城跡の石碑。

ここはお手軽に散策できる山城で、地元の方が定期的に整備されていました。登り口の神社脇から城跡までは、遊歩道が整備されているので、迷う事はありませんが、今回は途中の看板で城跡に異変が起きていることを知りました。

早落城 (18)1
確か5年前ぐらいには搦手から登城しており、何の問題もなかったはずだが、この警告は何を意味するのか??

ここから先に進むのは自己責任となります。無論、地元の方が立ち入り禁止としているので、それに従うのが賢明だと思います。

しかし、城跡における倒木の状態をこの目で確認して発信しないと、血気盛んな山城マニアは疑心暗鬼で突入するだろうし、偶発的な事故が起きないとは限らないのである。地元民として、そんな事故は未然に防ぎたい、というのが本心である・・・。

「申し訳ありませんが、確認のために、先に進ませていただきますネ・・・」

しばらく進み、城域に入ると切岸に倒れる倒木を見て深刻さを感じました。

早落城 (4)1
城域の北側の段郭の切岸に強大な松の木が倒れている。

樹齢70年近い松の木が、なすすべもなく横たわる光景。

「ここも松くい虫の被害か・・・・結構深刻な状況だよね・・・・」

※松くい虫の解説については、次のサイトがわかりやすいので、関心のある方は参考になさってください。
松本市ホームページ

長野県における松くい虫の被害は、昭和56年の確認以来増加傾向となり、平成7年にピークとなり減少平成11年までには一旦減少したが、その後再び増加に転じて平成25年にピークとなった。
令和2年度は前年度より減少傾向にあるものの、全国での被害量は24%を占めトップである。

令和3年の県内の地域別の被害状況は、
〇松本地域 全県被害の44% 被害量1位
〇上田地域 全県被害の19% 被害量2位
〇長野地域 全県被害の12% 被害量3位

松くい虫被害への対策としては、
・被害木の駆除(平成15年から全量駆除の方針を転換し守るべき松林の優先順位での駆除へ切り替え)
・予防(ヘリによる農薬の空中散布、樹木への殺虫剤の注入
・アカマツ以外の樹種への転換
などを推進している。         (長野県HPより抜粋)


早落城 (6)2
マツ材線虫病(マツノザイセンチュウ&マツノマダラカミキリの組み合わせ)で元気だった松の木も僅か数ヶ月で無残な姿となる。

早落城 (8)1

マツノマダラカミキリには元気な松を枯らす力は無いが、マツノザイセンチュウという病原生物がマツノマダラカミキリの体内に侵入し松の木へ運んでもらい、カミキリが産卵する際に枝や樹皮につける傷から侵入し、あっという間に増殖して松の樹木内の全ての水の循環系統を断ち切るのである。

早落城 (9)1

マツノマダラカミキリは倒れた松の木に産卵して個体を増やし、増えた個体にまたそれぞれマツノザイセンチュウが同乗して次の松の木に侵入し次々と枯らしていく悪循環が「松くい虫被害」である。

従来の駆除方法であれば、倒れた松の木を解体して薬剤を吹き付けマツノマダラカミキリが産卵しないようにビニールで覆うのであるが、ここの城跡の松林は駆除の優先順位には入っていないようで、そのまま放置されている。
このような枯れた大木の処理は、地域の保存会でも無理であり、業者に頼めばかなりの費用が掛かると思われる。

早落城 (14)1
主郭に立つ説明板にも白骨化した松の木が。

早落城 (12)1
堀切の表示板をあざ笑うように、堀切を埋めつくす倒木。

第二次世界大戦後、森林の復興のために長野県でも松や杉の植林が盛んに行われました。
長野県の山城も松林で覆われているところが結構多いのは、この時の植樹によるものも多いと推定されます。

ですが、近年の松くい虫の被害により、城跡の松の木が枯れて遺構が破壊されるという予測できなかった事態に遭遇しております。

早落城の状況はしばらくこのままで手が付けられないと思われます。
相方の「ていぴす」殿の話では、松本市四賀の荒神尾城の倒木による遺構の壊滅は時間の問題ではないか?という情報もあるし、その近くの鷹巣根城も城域が松林なので心配です。

既に松くい虫の倒木による中信濃、東信濃の山城の被害は拡大中で、北信濃にも進行中と聞き及びます。

「地元の松林を守ろう」という地元住民の強い意志と結束が無いと、被害拡大防止のためのヘリによる薬剤散布は難しく、新興住宅地や新たに転入してきた住民の健康被害に対する不安で反対運動も多いようです。

自然の環境変化による予期せぬ中世山城遺構の破壊。どう対処していけばよいのでしょうか?

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早落城から見た伊深城。あそこも松林が多いので心配です。

この日は近くの稲倉城(しなぐらじょう)へも行く予定でしたが、大手道からのトライは藪が酷く断念。あそこも麓から山城方面を見ると枯れた松林が多くとても心配です。

※松くい虫の被害を受けた松の木は、幹の途中から突然折れたり倒れたりするので、近づいたりしない事
※入口に侵入禁止と表示のある松林や付近一帯に枯れた松林が広がる場所には決して入らない事(地元の方にも確認してください)

Posted on 2022/06/04 Sat. 08:37 [edit]

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「あなたも行ってみたくなる!?上田地域の山城第7弾」アップしました!  

◆地元の憩いの公園が難攻不落の山城だった事をする人は少ない?◆

そんなに早く公開していいの?と思いつつ、昨日上田市行政チャンネルYouTubeに「あなたも行ってみたくなる!?上田地域の山城第7弾 丸子城」がアップされました!!

未視聴のかたはこちらクリックで再生されます⇒上田地域の山城第7弾丸子城

山城動画⑦ (1)1

「戦ごっこはもう飽きた・・」などと言わず、今回ご紹介する丸子城は、尾根の独立した2つの頂部から構成される「複合城」というこの地域では珍しい形態の山城で、第一次上田合戦では攻める徳川軍を撃退したという実戦を経験した山城でもあります。

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美しい宮坂武男氏の鳥観図。山容の険しさが絵からもお分かりいただけると思います。

依田川と内村川を天然の水堀とする難攻不落の山城「丸子城」ですが、ふだんは地域住民の憩いの公園として利用され、険しい尾根は遊歩道が整備されてお手軽に散策できる場所となっています。

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飯盛城の物見櫓からの眺望。

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丸子城の主郭

さて、今回はこの山城をどう解説するのでしょうか?感想も是非お聞かせくださいね(^-^)

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今回は、小生からの提案で、「山城巡りのお約束」を掲示させていただきました。
ルールを守り、安全で楽しい山城巡りをには必要な事ですよね。


≪丸子城≫ (まるこじょう 依田城、飯盛城)

標高:684.6m 比高143m 
築城時期:不明
築城・居住者:依田氏、丸子氏
場所:上田市上丸子
撮影日:2022年4月17日 
お勧め度:★★★★☆
難易度:B
城跡までの所要時間:20分  駐車場:あり(丸子公園)
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥屋城、水の手城、鳥羽城、小山城、根羽城など


Posted on 2022/05/24 Tue. 08:10 [edit]

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