らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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長瀬氏館 (塩尻市洗馬) 
◆木曽義仲の従士として活躍した長瀬判官代一族の隠れ里か?◆
♪これっきり これっきり もう これっきりーですかあ ♪ (百恵ちゃんの横須賀ストーリー・・古いなあ・・笑)
義仲史跡巡り信濃編は打ち止めにしたいのだが、塩尻の洗馬宿に「長瀬」という地区があり、実際に長瀬一族が住む居館跡があるというのを「ていぴす殿」より聞いていたので、チョッと寄ってみた。
せっかくなので記事にしたい・・・(笑)

集落に鎮座する白山神社。
木曽義仲に関連した長瀬氏については、以前に小県郡の長瀬地籍の古城館で書いているが、今回掲載するのも長瀬判官代で同一人物である。
どちらが本物か?などというつもりはサラサラ無くて、いずれも800年前の話なので各地に伝わる伝承の一つと推測される。
【立地】
中山道の洗馬宿南西、奈良井川の左岸段丘上が長瀬集落である。牧野集落の段丘から崖を下り、奈良井川の対岸に渡った場所が長瀬地籍で、現在も長瀬氏が住んでいる。以前は世帯も多かったようだが、今は2軒のみが残る。
長瀬橋を渡った段丘上の南側が集落で、養豚場(小山畜産)のある場所は「北原」と呼ばれ耕作地だったという。
白山神社の背後には「平じゅう」(たいらじゅう)と呼ばれる山腹の平場がある。

長瀬橋を渡った火の見櫓のあるあたりが集落の入り口となる。

奈良井川の浸食によって形成された河岸段丘を利用した場所であることが分かる。
【館主・館歴】
東筑摩郡誌に「長瀬氏ノ邸址 宗賀村洗馬」とあり、「洗馬駅の西方に邸址あり。往昔木曽氏の臣長瀬判官此に居住せりと云ふ。」とある。

集落の入口にある道祖神。その昔は住民の信仰を集めたのであろうか・・。

集落の長瀬一族が判官様と呼び祀る塚。土塁の欠損のようにも見えるが不明だ。
冒頭でも書いた通り、木曽義仲の従士として活躍した長瀬氏の本拠地が小県郡なのか塩尻の洗馬宿なのかは分からない。
ひょっとしたら、長瀬判官代義員が主君である義仲とともに粟津ヶ原で討死したのち、長瀬一族が頼朝の落武者狩りを避けてこの地に落ち延びた可能性は否定出来ない。

見取図の1と記載した休耕田。嘗ての集落跡である。

人工的な水路の巡る郭1。かなり広い土地で居館の立地条件としては優良物件である。
【館跡】
現状の地形や状況から図で示した「1」の場所に居館があったであろう、という事は想像できても遺構は全く残っていない。奈良井川の対岸の状況については牧野集落に続く崖渕が高くて居館からは様子が見えない。
そこで、白山神社の背後にある「平じゅう」(たいらじゅう)と呼ばれる削平地にて外敵を見張ったという説も否定できない。

近年まで人々の生活が営まれていたことを物語る水路。

白山神社の裏手から「平じゅう」(たいらじゅう)とよばれる二の郭へ道が続く。

白山神社から比高30mも登ると突然削平地が広がる。それが「平じゅう」である。
物見砦という感想を宮坂氏はもっておられるようだが、最悪のシナリオを想定した一族の脱出ルートとして、一時的な避難箇所としてつくられた可能性も否定せきません・・。

現在の郭2.景色は良くない・・・。
【その後の長瀬氏の避難先か?】
木曽義仲と共に長瀬判官代義員は討死するが、残った一族は頼朝の詮索を逃れてこの地にたどり着いた・・・という想像は出来ないであろうか?
南信濃は平家の落武者伝説の残る集落が多い・・。VS頼朝の敗者としての義仲軍団も似たような運命に翻弄されたであろう事は想像に難くない。

白山神社が朽ち果ててしまうのは時間の問題かもしれない。
「隠れ里」・・・・・・・
そんな言葉の似あう土地を私は知らない。
がしかし、世間から隔離された場所が存在するのも事実である。
私の訪れた日は、無数の天道虫が長瀬集落の空を飛び交うという不思議な光景だった・・・・・

奈良井川の対岸からは隔離された世界ではある。
≪長瀬氏居館≫ (ながせしきょかん 長瀬判官)
標高:743m 比高:7m (奈良井川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市洗馬
攻城日:2015年10月18日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し、路駐
見どころ:集落の雰囲気・・
注意事項:住民の方に迷惑がかからないように見学願います
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城跡:妙義山城、本山城、上田城など

集落入口から見た奈良井川に架かる長瀬橋。
♪これっきり これっきり もう これっきりーですかあ ♪ (百恵ちゃんの横須賀ストーリー・・古いなあ・・笑)
義仲史跡巡り信濃編は打ち止めにしたいのだが、塩尻の洗馬宿に「長瀬」という地区があり、実際に長瀬一族が住む居館跡があるというのを「ていぴす殿」より聞いていたので、チョッと寄ってみた。
せっかくなので記事にしたい・・・(笑)

集落に鎮座する白山神社。
木曽義仲に関連した長瀬氏については、以前に小県郡の長瀬地籍の古城館で書いているが、今回掲載するのも長瀬判官代で同一人物である。
どちらが本物か?などというつもりはサラサラ無くて、いずれも800年前の話なので各地に伝わる伝承の一つと推測される。
【立地】
中山道の洗馬宿南西、奈良井川の左岸段丘上が長瀬集落である。牧野集落の段丘から崖を下り、奈良井川の対岸に渡った場所が長瀬地籍で、現在も長瀬氏が住んでいる。以前は世帯も多かったようだが、今は2軒のみが残る。
長瀬橋を渡った段丘上の南側が集落で、養豚場(小山畜産)のある場所は「北原」と呼ばれ耕作地だったという。
白山神社の背後には「平じゅう」(たいらじゅう)と呼ばれる山腹の平場がある。

長瀬橋を渡った火の見櫓のあるあたりが集落の入り口となる。

奈良井川の浸食によって形成された河岸段丘を利用した場所であることが分かる。
【館主・館歴】
東筑摩郡誌に「長瀬氏ノ邸址 宗賀村洗馬」とあり、「洗馬駅の西方に邸址あり。往昔木曽氏の臣長瀬判官此に居住せりと云ふ。」とある。

集落の入口にある道祖神。その昔は住民の信仰を集めたのであろうか・・。

集落の長瀬一族が判官様と呼び祀る塚。土塁の欠損のようにも見えるが不明だ。
冒頭でも書いた通り、木曽義仲の従士として活躍した長瀬氏の本拠地が小県郡なのか塩尻の洗馬宿なのかは分からない。
ひょっとしたら、長瀬判官代義員が主君である義仲とともに粟津ヶ原で討死したのち、長瀬一族が頼朝の落武者狩りを避けてこの地に落ち延びた可能性は否定出来ない。

見取図の1と記載した休耕田。嘗ての集落跡である。

人工的な水路の巡る郭1。かなり広い土地で居館の立地条件としては優良物件である。
【館跡】
現状の地形や状況から図で示した「1」の場所に居館があったであろう、という事は想像できても遺構は全く残っていない。奈良井川の対岸の状況については牧野集落に続く崖渕が高くて居館からは様子が見えない。
そこで、白山神社の背後にある「平じゅう」(たいらじゅう)と呼ばれる削平地にて外敵を見張ったという説も否定できない。

近年まで人々の生活が営まれていたことを物語る水路。

白山神社の裏手から「平じゅう」(たいらじゅう)とよばれる二の郭へ道が続く。

白山神社から比高30mも登ると突然削平地が広がる。それが「平じゅう」である。
物見砦という感想を宮坂氏はもっておられるようだが、最悪のシナリオを想定した一族の脱出ルートとして、一時的な避難箇所としてつくられた可能性も否定せきません・・。

現在の郭2.景色は良くない・・・。
【その後の長瀬氏の避難先か?】
木曽義仲と共に長瀬判官代義員は討死するが、残った一族は頼朝の詮索を逃れてこの地にたどり着いた・・・という想像は出来ないであろうか?
南信濃は平家の落武者伝説の残る集落が多い・・。VS頼朝の敗者としての義仲軍団も似たような運命に翻弄されたであろう事は想像に難くない。

白山神社が朽ち果ててしまうのは時間の問題かもしれない。
「隠れ里」・・・・・・・
そんな言葉の似あう土地を私は知らない。
がしかし、世間から隔離された場所が存在するのも事実である。
私の訪れた日は、無数の天道虫が長瀬集落の空を飛び交うという不思議な光景だった・・・・・

奈良井川の対岸からは隔離された世界ではある。
≪長瀬氏居館≫ (ながせしきょかん 長瀬判官)
標高:743m 比高:7m (奈良井川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市洗馬
攻城日:2015年10月18日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し、路駐
見どころ:集落の雰囲気・・
注意事項:住民の方に迷惑がかからないように見学願います
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城跡:妙義山城、本山城、上田城など

集落入口から見た奈良井川に架かる長瀬橋。
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Posted on 2015/11/10 Tue. 22:15 [edit]
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